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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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二十四時間の思い出

二十四時間の思い出

 いつからだろう。昔のことが思い出せなくなったのは。それさえもまったく思い出せない。


 朝起きると昨日のことが思い出せない。寝る前に書いた日記でかろうじて記憶のコピーを繋ぎ、日常生活をおくっているらしい。


 らしい、というのは、今朝起きたら急に、いや本当は『今朝も』なのだろう。記憶がなかったからだ。昨日なにがあったか思い出せない。いつ寝たのかも分からない。

 自分の名前と住所を覚えていたのが幸いだ。ただ、自分の顔は分からなくなっていた。鏡の中には見知らぬ中年男性がいた。


 いや、認めねばならない。目鼻立ち、目元のほくろ、どう見ても自分だった。けれど突然に老化した自分を受け入れることはできなかった。


 いったい何が起きたのかパニック寸前で、部屋の中をうろついていてカレンダーの下に置いてある手帳に気づいた。ずいぶん分厚い。なんとなく中を見なければならない気がして手帳を手に取った。


 しおりの代わりか、一枚の名刺が挟んである。名前は自分のものだが、会社名は知らないものだった。住所は家から近い。けれどこんな名前の会社があったかどうか思い出せない。会社名だけでは何の会社なのかも分からない。


 名刺が挟まれていたページに目を落とす。


『カレンダーに×をつけること。それが今日の日付だ』


 カレンダーの日付は一つずつ×印で消されている。一月十日に×をつける。二○一七年一月十日……。それが今日なのだろうか。

 手帳を繰って次のページへ進む。


『顔を洗い、コーヒーを飲むこと』


 たしかに、この混乱した頭を静めるためにそうした方が良さそうだ。

 湯を沸かしている間にヒゲも剃り、いくぶんかさっぱりしてコーヒーを淹れた。立ちのぼる温かな香気が現実を連れ戻してくれた気がする。今、鏡をのぞけば、いつもの自分がいるはず。

 そう思ったが鏡の中から私を見ているのは、やはり中年の男性だった。


 コーヒーを一口飲んで手帳の次のページに進む。


『私の記憶は毎朝リセットされる。いつからか、どうしてなのか全く分からない。手帳に記録を付けだしたのが初めの日だったのかどうかも分からない。ただ、周囲の人間は私のこの異変を知っていて受け入れている。仕事もある。家族と友人はいないらしい。』


 何がなんだか分からない。出来の悪いSF映画の中に迷いこんだような気がする。


『職場の場所はカレンダー脇の地図に書き込んである。所持品はすべてクローゼットの中。始業時間は八時半。仕事内容は行けば教えてもらえる。』


 八時半……、もうあと二十分しかない。あわててクローゼットを開けると、中に入っているのはカジュアルな服だけで 、スーツはなかった。いったいどんな仕事をしているのかと首をひねりながらクリーニング屋の袋から取り出したセーターを着た。

 小さなタンスがクローゼットの中に押し込まれている。その上に鍵と腕時計と財布が置いてあった。財布の中には千円札が三枚と二枚のキャッシュカード、クリーニング屋の会員証と預り証、それとなぜかポチ袋が入っている。

 ポチ袋を逆さにして振ると、総合病院の診察券と一枚のメモ用紙が出てきた。


 病院。そうだ、病院だ。きっと記憶喪失かなにかなんだ。診察券に書いてある住所は近所のものではなかった。メモ用紙に地図でも書いていないかと開いてみた。


『病院に行くのは毎月第三水曜日』


 カレンダーを見る。今日は月曜だ。同時に時計が目に入る。始業時間十分前。あわてて家を飛び出した。

 地図であらかたの方向は分かっていた。そちらへ走ると、ほどなくして名刺と同じ名前を門に刻んだ工場にたどりついた。

 遅刻ぎりぎりで門をくぐると、五十年配の作業服姿の男性が通せんぼするように両腕を広げた。


「今日は遅刻しなかったな。病院にはいかなかったんだ?」


 見透かされたような言葉に眉をひそめた。


「お、今日は不信感の日か。本当に毎日毎日違うなあ、あんたは」


 何を言われているのか分からない。戸惑う私に、男性は手をさしのべ、気安い様子で私の肩を叩いた。


「じゃ、ロッカールームに行こうかね」


 ゆったりと歩き出した男性のあとについていくことしか、私にはできなかった。




「ここで作業着に着替える」


 ずらりと並んだロッカーのひとつを示され、扉を開いた。きちんとたたまれた作業着は男性が着ているものと同じだった。


「ほら、早く着替えて。朝礼に遅れるから」


 急かされるままに着替えをすませて、また男性の後ろについて歩く。

 明るい廊下の左右はガラス張りになっていて室内の様子が見えた。見慣れない巨大な機械が何台も並び、それを点検している人がいる。何を作る機械か皆目見当もつかない。

 廊下の突き当たりの扉をくぐり機械の間を縫って歩く。十人ほどの作業着姿の男性が列になっているところで男性は足を止めた。


「朝礼を始めまーす」


 そう呼ばわる男性の後ろにいるわけにもいかず、 私も列に並んだ。皆、私が並ぶことに違和感を持たないようで平然としている。

 朝礼は点呼と、作業上の注意を受けるだけで終わった。私以外の人たちはばらばらと散っていく。どうしたらいいか分からずきょろきょろしていると、私を連れてきてくれた男性が、去ろうとしていた一人を呼び止めた。


「遠山主任、今日は洗いをさせて」


「あ、はい」


 遠山主任と呼ばれた男性は私を手まねいて一台の機械の前に立った。


「ベルトコンベアで流れてくる機械を取り上げて、中に入れたら緑のボタンを押す。ランプがついて洗浄が始まる。ブザーが鳴ってランプが消えたら取り出してベルトに乗せる。それだけだから」


「え、あの……」


「大丈夫、体が覚えてるから。じゃ、安全第一で」


 遠山主任は早足で去ってしまい、ベルトコンベアが動き出した。私は何も分からないまま仕事を始めた。


 言われた通り、体が動きを覚えているらしく、すいすいと作業は進んだ。けっこうな早さで流れてくる機械をさばくのに必死で、記憶がないことを考える暇もなかった。

 自分のことを聞けたのは昼休みになってからだった。


「もう三年くらい、この会社で働いてるよ。記憶が消えるのはそれより前からだってさ。病院でも原因不明。親類縁者はなし、年齢はたぶん四十代後半。今日の定食はチキンカツ」


 私が口を開く前に遠山主任がすらすらと、知りたかったことを教えてくれた。毎日繰り返している手慣れた行動であるかのように、なめらかな口調だった。聞きたいことは次から次に湧いてきたが、それを主任に聞いたところで答えは返ってこない気がした。

 一番知りたい質問『どうしたら記憶はもどる?』。誰に聞いたら分かるだろう。


「記憶が戻る方法は医者にも分からないとさ」


 主任がそう言って去っていった。心を読まれたように思ったが、たんに私がいつも同じ質問を繰り返しているだけなのだろう。

 昼食をとる気にもなれなかった。ロッカーに戻って手帳を読んだ。日々を送るための細々した注意書がある。私が書いたのだろうか。本当に私が?


 午後の仕事はあっという間に終わった。着替えをして会社を出ると、すっかり暗くなっていた。月が明るかった。記憶がなくても月はきれいだと感じるものなのだと、ぼうっと考えながら家に帰った。


 家中を探り回ってみたが、記憶がもどるよすがは見つからなかった。時計を見るとすでに十二時が近かった。

 今日が終わる。何も思い出せないまま、何もできないまま。

 明日になればまた記憶はなくなるのだろうか? 今日のことはすべてなかったことになってしまうのだろうか?

 突然、冷水を浴びたかのように体が冷えた。焦燥感が背骨をかけあがる。


 私は今日、何をしただろう。明日には忘れてしまうとしても、いや、だからこそ何かを形にして残すべきだったのではないか?

 何か、何かしなければ!


 しかし時計は十二時を告げ、私は糸が切れたように唐突に眠りに落ちた。

 そしてまた今日が始まる。

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