一期一会
一期一会
生まれて初めての書道、幼稚園児書初め教室でハルヒは大きな筆を両手で握りしめて半紙に向かっていた。彼女にとって筆は初めて見るクレヨン以外の執筆用具で、黒々した墨を吸って重く艶めく穂先に触りたいという欲求を押さえつけるのに必死だった。彼女がそういった感情を持つであろうことを前もって知覚したママが「筆を振り回したらダメよ、舐めてもダメ。イイ子にしていないとハルヒのおやつ、ママが食べちゃうから」とハルヒに釘を刺したので、今日のおやつ、鳴門金時の焼き芋を何より楽しみにしていたハルヒは必死になっていたのだった。
「それでは、みなさん。紙になにか書いてみましょう。なんでも好きなことをかいてくださいね」
書道教室の講師の若葉ちゃんは若くてかわいい女性で、幼稚園児はみんな彼女の言葉をよく聞いた。ハルヒももちろん彼女に好感を覚えてイイ子であろうとした。しかし如何せん筆が重すぎた。ハルヒは半紙のど真ん中にどん、と筆を落とした。
「あら、ハルヒちゃん。それはなにかな?」
若葉ちゃんが近づいてきた。なにかな? と言われても、それはなんでもないただの汚点だ。ハルヒは頭をひねって考えた。高速で考えた。
「い、イチゴ!」
「わーあ、すごいねえ。よく書けたね。じゃあ、次は字を書いてみよっか」
若葉ちゃんはハルヒのイチゴをさらっと取り上げ、新しい半紙を置いた。ハルヒはホッとしたような助かったような気持ちで新しい紙を見つめた。
「ハルヒちゃん、何かくの?」
隣の席の太一くんが顔じゅうに墨をつけてハルヒに尋ねた。ハルヒは首をかしげて考えた。
「イチゴ?」
「はーい、ハルヒちゃん、字を書きましょうねえ」
二人の間に若葉ちゃんが割り込んで、ハルヒの筆をぐいっと半紙に近づけた。
「イチゴってかくなら、いい言葉があるわよ」
「どんな?」
若葉ちゃんはハルヒの手を上からそっと握って、大きく動かした。
「一期一会」
漢字が読めないハルヒは若葉ちゃんを見上げた。
「なんて書いたの?」
「美味しいイチゴが食べられますように、って書いたのよ」
「ふうん」
若葉ちゃんはハルヒの「ふうん」に満足したらしく、他の園児のところへ行ってしまった。ハルヒは自分の半紙を見つめていたが、
「今日は焼き芋だからイチゴはもういいや」
と言って半紙をどけると、墨をいっぱい吸った筆をぺろりと舐めた。




