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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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あの夏の香り

あの夏の香り

 長崎には坂が多い。

 僕が通った中学校も坂の上にあった。あの日も僕は夏休みだというのに、息をきらして坂を駆け上がっていた。

 八月九日。長崎市内すべての学校で原爆記念日の平和教育が行われる。戦争の惨禍や現代にまで残る傷跡を写真や文章で見ていくのだ。毎年のことなのに休みに慣れてしまった僕は、うっかり寝過ごして、汗みずくで走っていた。始業時刻もとっくに過ぎた無人の校門にようやくたどり着いた時、街中の教会の鐘が一斉に鳴り出した。午前十一時二分。原爆が投下された時刻、街中の人が黙祷を捧げる時刻だった。

 校門のそばに突然、人影が現れた。僕は驚いて足を止めた。

 白い夏物の修道服に身を包んだ美しい女性だった。彼女はかたわらの地面を見つめ微笑んでいた。いかにも愛情にあふれた、大切なものを見つめる目。僕はその優しい横顔に見惚れた。

 鐘の音の残響が終わるとともに彼女の姿はかき消えた。現れた時と同じように唐突に。彼女が何を見つめていたのか確かめようとあたりを探したが、何も見あたらない。ただ、乾いた地面があるだけだ。

 ふと、甘い花のような香りがした。ぐるりと校庭を見回してみても、匂いの元になりそうなものは何もない。夏の日差しが地面を焼いた熱が、幻覚を感じさせたのだろうか。

 この街にはこの手の不思議な話はゴマンと転がっている。石段に焼き付いた影が原爆投下の時間だけ動いているとか、鐘の音とともに、焼かれそうなほどに熱い風が吹き付ける場所があるとか。けれど実際に体験したのは初めてだった。怖くはなかった。不思議と胸が静まるような安心感だけがあった。

 翌年も、翌々年も、僕はわざと遅刻した。鐘の音を聞きながら、彼女の姿を見つめていた。毎年その時だけ嗅ぐことができる甘い香りは、優しい面影とともに僕の記憶に深く染み込んだ。僕はその日のことを誰にもしゃべらなかった。僕一人だけの大事な秘密だった。

 後に調べたことだが、原爆が落とされるまで、ここは修道院だったらしい。建物は爆風で跡形もなく消えてしまい、そこにいた人達の名前すらわからなかった。


 それから数年後、偶然その香りと再会した。

 デパートの香水売り場を通りかかった時のことだ。懐かしい香りにおどろいて振り返ると、女性客がサンプルの蓋を開けたところだった。その瓶には「Lily of Valley」という名前が書かれていた。

 そうか。彼女はあの日あの場所で、ユリの花を見つめていたのか。そして原爆が落ちて、何もかも一瞬で消えたのだ。彼女も、ユリの花も、その花の香りさえも。


 坂を上り母校の門をくぐる。彼女が立っていたその場所に立ち、街を見下ろす。

 彼女が見ていた景色とはまったく違ってしまった風景。そしてこれからも、変わっていく風景。

 門のそば、彼女が見つめていた場所に穴を掘り「Lily of Valley」と書かれた瓶を埋めた。彼女のために枯れないユリを贈りたかったのだ。

 そうして僕は心から、平和を祈った。

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