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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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明日は明日の風が吹いたら桶屋がもうかる。

明日は明日の風が吹いたら桶屋がもうかる。

 ああ、明日も仕事だ。和代は疲れきってため息も出ない体を引きずって電車に乗った。ほぼ満員で席は空いていない。なんとか扉の前に陣取って、扉にもたれて目をつぶる。


 生活のために仕事をかけもちしているせいで、もう半年、まともに休んでいなかった。昼はパソコンとにらみあい、夜と休日はスーパーでレジをうった。そうやって働いても金は貯まらない。すべて旦那がパチンコですってくる。十七才の息子は家出したまま行方がしれない。頼れる人はだれもいない。


 立ったまま寝てしまって、停車の衝動で目が覚めた。


『お疲れさまでした〜終点、福岡天神駅で〜す。どなたさまも〜おわすれものございま……』


 しまった! 寝過ごした!

 和代は電車から飛び降りて反対側のホームに駆け込んだ。次の下り電車は十五分後。確実にパートに間に合わない。皆勤手当てが消え去った。呆然とホームにたたずんでいると、酔客が和代のそばを通りすぎていく。酒くささに加齢臭、さらには暖房でかいた汗臭さ。女性からはきつすぎる香水の臭い。なにもかもが神経にさわった。


 イライラと爪をかんでいると下り電車がやってきた。発車までまだ十分以上ある。その余裕にもイライラがつのった。

 遅刻の連絡をいれようとケータイをカバンから取り出して通話ボタンを押しそうになって、ふと手を止めた。

 この時間ならまだタクシーに乗れば間に合うかもしれない。


 真剣に時間の計算を始めた自分になにか違和感をおぼえた。

 ケータイをあやつる手をとめて自分の足先を見下ろす。もう三年履きつぶしたスニーカー。洗ってもとれない汚れ。

 タクシーに乗れば間に合う勤務時間と、それと引き換えに消し飛ぶ今日の賃金。

 金ばかりかかる旦那と、自分が見捨てたようでいて本当は自分を見捨てた息子。

 長年飲んでいない本物のビール。

 小銭惜しさに断った駅前の募金。

 なにもかもが和代を責めた。なにもかもがしゃくにさわった。


 和代はケータイをサイレントモードに設定して、コンビニに駆け込みビールを買った。店の外でビールをあおり大きなげっぷをした。ストリートミュージシャンのギターケースに千円札を放り込み、そのまま去ろうとした。


「ちょっと待って」


 ストリートミュージシャンに呼び止められて酔って赤ら顔の和代は振り返った。


「お姉さんの好きな曲ってなに? 教えて」


 和代はとまどいながらも考えた。酔いがまわった頭ではなにもかもがあいまいだ。そのなかでふとひらめいた曲名を口にした。


「糸」


「中島みゆき?」


 すぐに分かってくれたミュージシャンに素直にうなずいた。


 ミュージシャンはチューニングをあわせて「糸」を弾いてくれた。和代のリクエストに全力で答えてくれた。

 和代はなんだか肩の荷がおりた気がした。曲が終わると、いつの間にか増えていた聴衆から拍手が起こった。

 ミュージシャンは和代を見てほがらかに笑った。こんなに大勢の人が聞いていたのに、ミュージシャンは和代一人のためだけに弾いてくれたのだ。和代は大きな拍手をして電車に乗った。


 その日から生活は何も変わらない。かけもちの仕事、働かない旦那、消えたままの息子。けれどそのどれも、もう和代を痛め付けることはできない。和代は和代のために生きている。

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