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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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ヘリポートと雑巾と憂鬱

ヘリポートと雑巾と憂鬱

 就職してから一ヶ月、清掃の仕事にもなれ、満里子のあかぎれも治った。手の皮が厚くなったのか、冷たい水でもなんとか雑巾を洗えるようになった。

 十二月の屋上で吹き荒れるビル風にあおられながらヘリポートの手すりをみがく。さすがに寒風にさらされると濡れた手はじんじんと痛んで赤くなる。金属製の手すりに素手で触れると氷のように冷たくて手が切れそうだった。


 このビジネスビルは三十階を越え、満里子が暮らす地方都市では珍しい高層だった。屋上からは付近の低層階のビルを見下ろせる。きっとオフィスの窓からも見下ろせるのだろうが、満里子はオフィス内に入ることがないから見たことはない。


 地上からこのビルを見上げると、そこだけ都会から借りてきたようなアンバランスさがある。無理に風景のなかに押し込もうとして失敗したかのように。

 エレベーターで乗り合わせる人たちも、不自然なほどによそよそしい。みんな上を向いたまま、誰とも目を合わせない。階数表示は秒針に合わせるような速さで変わっていく。満里子はエレベーターを降りるたびにくらくらと目眩を感じた。


 勤続年数がもっとも長い同僚が、ヘリポートにヘリが降りたことは一度もないのだと言った。無用の長物。毎日磨いても磨いてもヘリは来ないのだと知って、満里子は腹に穴があいて大事なものがみんな溢れ落ちていくような気がした。なにか大事なものをなくしたような。腹を押さえてみたが穴など開いていないし、そもそも満里子には大事なものなどなかった。


 今日も手を赤くしてヘリポートの手すりを磨く。空はどんよりと、今にも雪が降ってきそうだ。

 曇天を見上げる。風も強く、ヘリは広い空のどこにも見えない。来るあてのないヘリを待ち続けるポートが哀れだ。だが、待つべき何かがあるぶんだけ満里子より幸せなのかもしれない。


 満里子は家族も友人も持たなかった。昔はあったものだが、ある日突然、満里子は姿を消した。名前も変えた。満里子という名前は自分でつけた。親がくれた名前は捨てた。

 姿をくらましたことに、はっきりとした理由はなかった。ただなんとなく自分は消えるべきだと思ったのだ。


 満里子が満里子になったのは三十歳を過ぎて何年かたったころ。二十歳を過ぎてから年を数えるのをやめたので、本当はいくつだったのか満里子は知らない。ただ、目尻にしわがよるようになったので若くないと自覚しただけだった。


 わずかな貯金は部屋を借りるときの保証会社への支払いと不動産屋への不法賃貸契約のための袖の下に消えた。金さえあれば得体のしれない人間でも住むところを得られることを知った。でたらめな履歴書と適当な志望動機で仕事にもついた。そうやって満里子は誰も知らない満里子になった。


 部屋に帰ると部屋の掃除をする。埃ひとすじも残したくない。満里子が生きたあかしを残したくない。磨きあげた清潔な部屋で、満里子は隅に寄って眠る。部屋は満里子に求められることなく毎日磨かれ続ける。まるでヘリポートの手すりのように主を待っても得られない。


 満里子の受け持ち部署が変わった。新しく清掃にはいるのは地下駐車場だった。暖房が入っているわけではないので冷えるのだが、それでも屋上とは比べ物にならないほど暖かい。震えることもなく、あかぎれもできない。けれどなぜか満里子はヘリポートばかりが気にかかった。


 ヘリポートの掃除は新人の根性を試すためにでもあるのか、新しく入ったパートタイマーが必ず割り振られた。過酷な環境に耐えられなかったのか、どんどん辞めていき、どんどん採用された。新しく入ってくる人達は皆、あかぎれも知らないきれいな手のまま去っていった。


 休憩時間に満里子は屋上にのぼってみた。ぐるりと一周すると、あちらこちらに汚れを見つけた。ヘリポートの手すりは特に汚れて曇っていた。

 満里子はポケットからハンカチを取り出して手すりを磨いた。乾いた布ではなかなか汚れは落ちない。左手で手すりを握り、右手を握りしめて磨いた。

 何をそんなに意地になっているのか分からなかった。でも磨いてやらなければいけないのだという思いが腹の底から湧いてきた。


 空から聞こえたバラバラという音に顔を上げた。ヘリがこちらに向かって飛んでくる。急がないと、汚れたヘリポートにはヘリは降りてくれない。

 バカみたいな妄想だと分かっていたが、満里子は手すりを磨く手を止められなかった。

 手すりがすっかりきれいになり空を仰ぐと、ヘリはとっくに遠くに飛んでいってしまっていた。満里子は両手を垂らしたまま、ヘリが飛んでいくのを見送った。


「満里子さん」


 呼ばれて振り替えると、新人の風宮が屋上に出てきたところだった。肩を震わせていかにも寒そうだった。風宮は満里子の手の中の汚れたハンカチを見て眉をひそめた。


「そんなに私の掃除はヘタでしたか?」


 険のある声で風宮に問われても満里子は返事をしなかった。すれ違ってビルの中に入っていく満里子を風宮は睨み付けていた。

 階段脇のゴミ箱にハンカチを捨てた。ここも風宮の担当だ。満里子が当てこすりに捨てていったのだと思うかもしれない。満里子にはどうでもいいことだった。


 いくらきれいにしてもヘリはこない。いくら息を殺しても満里子には何もやってこないのだと理解した。

 もう部屋を磨くのはやめよう。満里子は暗くほの暖かい地下に戻っていった。

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