えんぴつが一本
えんぴつが一本
画材をすべて処分したつもりだったが、一張羅のジャケットの内ポケットにえんぴつが一本入っていた。下書き用の4Bの芯が太いえんぴつだ。手帳に文字を書ける線幅ではない。絵を描く以外のなににも使えない。
いろいろなものを処分した部屋はガランとして寒々しかった。残ったものはカーテンと一脚の椅子だけだ。椅子も処分しようと思ったのだが、それがなくなったら、部屋が本当にからっぽになると思って残したのだ。
いや、それは言い訳だ。自分で分かっている。この椅子に座った彼女の思い出を捨てたくなかったのだ。彼女がいなくなったこの世に、まだ未練が残っているのだ。
彼女は内面から輝くような美しさを持っていた。私はその輝きを写しとりたくてキャンバスを彼女の肖像で埋めた。何枚描いても私には彼女の外面しか写せなかった。部屋中に散らばる彼女の破片は少しもきらめかなかった。
そんな絵でも買いたいという人はいた。けれど私は売らなかった。彼女の本当の美しさを知らない人に譲るわけにはいかなかった。
病床で彼女はますます輝いた。細っていく体からは信じられないような生命力のきらめきだった。私は残り少ない時間をキャンバスに縫いとめようと寝食を忘れて絵を描き続けた。
彼女が息をひきとった時、私は気づかずに色を塗りつづけていた。何時間も彼女が亡くなったことに気づかなかった。気づいたときに、私は彼女の輝きを描けなかった理由を知った。私は私の絵ばかりを見て、彼女を見てはいなかったのだ。もう何年も前に私は彼女を失っていたのだ。
私にはもうなにも残っていない。彼女がいないこの部屋にいる理由もない。
椅子に乗り、天井近くの梁にロープを結ぶ。輪を作り首にかける。
椅子を蹴り倒した瞬間、私ははっきりと見た。この世がまぶしいくらいに輝くのを。それは彼女の輝きそのものだった。
これは生命のきらめきだったのか。彼女はいつも全身で生きていたのか。
今、今こそ絵を描くべき時だ。ああ、しかし私には画材も時間もない。しまる首の苦しさにあばれていると、手がポケットのえんぴつに触れた。私は苦しさも忘れてえんぴつを握りしめ手のひらに突き立てた。真っ赤な血が流れる。
ああ、これだ。これが命だ。
薄れる意識のなか、彼女のきらめきが私の全身を包んだように感じた。