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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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フット プリント

フット プリント

 カトリックの高校に通っていた。その学校には宗教という授業科目があった。たしか週に2コマあったと思う。

 何人かのシスターが講師をしていて、毎時間、讃美歌を歌うことから始まった。

 聖書を読んで分かりやすい解説を聞いたり、教会の装飾の意味やキリスト教の歴史などを教わった。たまに映画鑑賞などもあった。「十戒」とか「ブラザーサン シスタームーン」とかキリスト教を取り扱ったものを。

 のんびりしていてテストもないし、好きな授業だった。


 ある日、シスターが一篇の英語の詩を教えてくれた。

「足跡」という題のその詩は私のキリスト教観の大分を占める。


 こんな意味合いの詩だ。


『ある夜、私は夢を見た。

どこまでも続く砂浜を私と我が主は並んで歩いていた。

どこまでも二人分の足跡が伸びている。

空に稲妻が光るように、私の人生のあらゆるシーンがうつしだされた。

どのシーン、どの時も足跡は二人分続いていた。

人生の最後のシーンにたどりつき私は振り返った。

人生のもっとも辛いとき、孤独なとき、足跡は一人分しかないのを私は見た。

なぜ主がそうなされたのか、

私は主にたずねた。


あなたはいついかなる時も私のそばにいるとおっしゃった。

けれど私が困難に陥ったとき、足跡は一人分しかありません。

なぜあなたは私から手を離したのですか。


主は言われた。


愛し子よ、私はあなたから離れることなどしない。

私はいついかなる時もあなたを試しはしない。

あなたが最も辛く苦しいとき、

足跡が一人分しかないその時、

私はあなたを背負い、歩いていたのだ』



 もし私がキリスト教徒になる日があるとすれば、その道を選ぶ契機はこの詩だ。

 私は神を信じてはいないが、人生の辛いとき、私を背負う大きな愛があると思うと、ほんの少し救われる気がするのだ。

 それはたぶん信仰の萌芽なのだろう。


 人は一人では生きられないと言うけれど人は必ず一人にならなければいけない時がある。

 産まれるとき、死ぬとき、誰にも分からない孤独を抱く夜。

 その時に自分の中に、自分を決して諦めない愛を見つけるのだろう。


 大学は仏教の学校に行った。仏教学も履修した。インドにも行った。

 仏教を学んで考えたことも、やはり自分で自分を諦めないということだった。


 世界三大宗教と言われるうちの二つに触れる機会があった。この後、イスラム教を知ることがあれば何を思うだろう。


 今、私たちがいだいているのは、原始の宗教とはまったく違う宗教観かもしれない。開祖が意図したものとは遥かにかけ離れているのかもしれない。

 それでもひとつだけ変わらないことがあると思うのだ。

 人は皆、胸の底に誰にも冒されないあたたかいものを持っているということ。

 その大切な大切なものを守るために、人は戦い、争い、愛するのだろう。

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