表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
828/888

本屋酔い

本屋酔い

 私は本屋で酔う。本の海に陶酔する、という意味ではない。車酔いするように、本屋へ入ると目眩、頭痛、吐き気に襲われるのだ。本屋に入り、なんとか新刊が平積みされた一角にたどりつき、しかしもうそれ以上は耐えられず本屋から逃げ出す。本屋の前を通りかかるたびに、それを繰り返している。苦しい思いをするくらいなら何もわざわざ本屋に入らなくてもよかろうに、と友人はあきれる。しかし私は本屋の楽しさを知っている。あの楽しさをもう一度味わいたくて何度も挑戦、敗北を繰り返しているのだ。しかも私は活字中毒だ。いつでも活字を読んでいないと目眩、頭痛、そして吐き気に襲われる。本屋に行っても酔い、行かなくても酔い、仕方なくネット通販で本を買っている。

 飛び込み営業の仕事は割合に自由だ。成績さえあげれば日中に何をしているか探られることもない。私は一日のノルマを午前中にさっさと達成して、後の時間は読書にあてている。仕事は全力でこなす。そうして読書時間をつくらねば活字中毒の私は倒れてしまうだろう。

 その日はめずらしく不作だった。迷路みたいな住宅街を歩き回り玄関ベルを鳴らしても鳴らしても誰も出てこない。まるで町が無人になってしまったみたいだ。そう言えば通行人もいない。そろそろ活字ぎれが近い。頭痛がしてきた。どこでもいい、どこでもいいから売ってしまわないと……!

 その時、私の目に一軒の古本屋が飛び込んできた。シャッターが開いていて営業している。確実に人がいる。私は本屋酔いのことも忘れ、古本屋に駆け込んだ。

 むわっと古本屋独特の埃と古紙が合わさったにおいが私を包む。乱雑に積み上げられた本の山、ジャンルがごちゃ混ぜの本棚、店の奥に小上がりがあって、そこに老人が座っている。懐かしい景色だった。昔よく見た光景だ。

 私にも本屋酔いしなかった時代がある。高校生のころはまだ酔わずに本屋に通った。と言っても少ない小遣いで思う存分本を買うには、古本屋に頼るしかない。私は青春のほとんどを古本屋で過ごした。

 この店はそんな時代を思い出させてくれる。床から塔のように積み上がった本をゆっくりと眺める。小説、謡本、画集、専門書。中に一冊の絵本を見つけた。

 懐かしい、懐かしい本だった。大好きで幼い頃、母にせがんで何度も読んでもらった。本の塔の中から絵本を取りだし埃を払った。そういえばいつからかこの絵本を見なくなっていた。いつからだろうと考えてみて、あっと思った。

 活字中毒になりかけていた高校入学当時、学校図書館の本を全冊読破してしまい新しい活字を求めた私は古本屋に飛び込み、もっとも活字分量が多い本を探した。その時、私の目に魅惑の商品が飛び込んだ。百科事典全二十冊セット。小遣いではまかないきれない金額を稼ぐために、家に置いていた自分の本を方端から古本屋に運び、物々交換のようにして百科事典を持ちかえった。その時に手放した一冊がこの文字量の少ない絵本だった。その時の店主は常連だった私に同情したのかこの絵本一冊を数千円で買い取ってくれた。

「八千円だよ」

 店番中の老人がふいに声をかけた。

「掘り出し物だからね」

 大好きだった絵本が今は掘り出し物なのか。定価より価値が倍増したことが何か嬉しくなり、私は財布から千円札を八枚取りだして老人に渡した。

 店を出てすぐに表紙をめくった。話は覚えていたつもりだったが、細部をずいぶん忘れていた。最後のページをめくると裏表紙に下手くそな字で「さいとうたくみ」と書いてある。私の名前だ。驚いて振り向くと古本屋は消えていた。そこには荒れた空き地があるだけだった。呆然としているうちに思い出した。先ほどの古本屋、あの老人、まさに私が学生時代に通いつめた店そのものではないか。

 手の中の絵本を見つめていてぼんやりと思いだしてきた。そうだ八千円だ。あのとき足りなかった金額はちょうど八千円だった。たった八千円。けれどどうしても欲しかった八千円。そのお金を今、私は過去に向けて送ったような気持ちがしていた。

 喫茶店を見つけ、仕事を放り出して絵本を読んだ。むさぼるように何度も何度も繰り返し読んだ。たった数百文字。ほとんど絵ばかりのこの本は読んでも読んでも読み飽きなかった。こんなにも好きだったのか。こんなにも深く読めるものだったのか。私は絵本をすみずみまで覚えこむほど読み、満足して席を立った。

 夕暮れ時の住宅街にはぽつりぽつりと人影があり、それぞれの家路をたどっていた。私は達成できなかった今日のノルマと共に電車に乗って会社に戻った。車内でもずっと絵本を読みつづけた。幸せだった。できればもう一度、あの古本屋に行って私が手放した他の本も買い戻したかった。けれどそれはもうできない。八千円の借りは返してしまったのだから。

 なぜかそれ以降、本屋酔いをすることはなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ