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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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危篤のネコ

危篤のネコ

 チョビが入院した。

 来年で23歳になるおばあちゃんネコ。

 ネコによくあることだけど、腎臓をやられて血尿が止まらないらしい。動物病院に入院させて点滴を受けさせてるそうだ。

 お医者さんは自宅で最期を看取ってやったら、というけれど。

 チョビが暮らしてきたのは母の職場で、母が仕事で外に出るときは無人なのだ。孤独に死ぬのがいいか、知らない人に囲まれて死ぬのがいいか。チョビ自身で選ぶことはできない。人間の都合によるのだ。


 ペットの臨終に仕事を休む人は結構いるらしい。私もそうしてやろうか、という気には残念ながらなれない。あまり関わってこなかったから愛着が薄いというのもあるし、元来、生物の生き死ににあまり興味がないということもある。

 冷淡だとも言える。チョビが死にかけている時に昼酒飲んで遊んでるんだから。しかし、私が何をしていてもチョビの痛みが消えるわけではないし、病気が治るわけではない。私が何をしていようが、チョビには無関係なのだ。


 悲しみは、自己のものだ。

 他者から受けるものではない。

 チョビが悲しみを運んでくるのではない。自分の中から湧いてくるものだ。その悲しみを持っていないことを寂しくは思うが、悪いとは思わない。悪いと思うなら、それは自己憐憫でしかない。悲しむことが良いことで、悲しまないのは悪いこと。その悪いことをさせている死に行くものに、チョビに、責任を擦り付けるのと同じだ。


 行こうと思えば行けるのに、私は見舞いに行かない。いつもそばにいたのなら、死ぬ時もそばにいるのが普通かもしれない。けれどたまたま偶然に会うだけだったのに、死の確信を持ったからと言って会いに行くのは違う気がするのだ。会いたくないのかと言われたらそうでもない。会いたいかと言われたらそうでもない。

 ただ、母の職場に出かけたときにチョビがいないと、寂しく感じるだろうという気持ちはある。そこにあったものがぽっかりとなくなっている。あたたかくてやわらかくて小さくて少し持ちおもりのするものがなくなったカラッポを感じて寂しくなるだろう。

 私はその寂しさを愛するだろう。

 そんな気がする。

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