知らないおじさんと一緒
知らないおじさんと一緒
「おじさんと一緒においで。お菓子をあげるよ」
そう言って差し出された手を、翔はためらわずに握った。お菓子なんかいらなかったけど、どこか知らないところ、誰も知らないところへ行きたかった。まだ五歳と幼い翔は一人では電車にも乗れない。けれど歩くより、走るより、もっと遠くに行きたかったのだ。
おじさんは車に翔を乗せた。新品のチャイルドシートに翔を座らせると、おじさんは翔の足を撫でた。
「すぐつくからね。ほら、お菓子だよ」
おじさんは翔にチョコレートバーを持たせて運転席に行った。すぐにエンジンがかかり、車は急発進した。翔はチョコレートバーをかじりながら窓の外を見ていた。家が、公園が、いつも行くスーパーが遠くなる。翔の心はふわりと軽くなって、風景と一緒に飛んでいきそうだった。
一時間ほど走って車は止まった。
「きみ、偉かったね。良い子にしていてくれて、ありがとう」
おじさんは翔の膝をくるくると撫でる。くすぐったくて翔は笑った。おじさんも嬉しそうに笑って翔を抱き締めた。
抱き上げられた翔は赤ちゃんのように、おじさんにしがみついた。車を降りたおじさんは、ぼろぼろの小さな家に入っていった。外はぼろぼろだったけれど、家のなかはキレイだった。昔のぼくの家みたいだな、と翔は考えて、悲しくなった。
パパがいない時間、ママが家に知らない男の人を連れてくるようになってから、家は汚くなった。ごはんももらえたり、もらえなかったりした。パパとママはずっとケンカばかりして、パパが家に帰って来なくなった。知らない男はずっと家にいて、翔をたたいた。ママは見ているのに知らんぷりしていた。翔は遠くに、誰も知らないところに行きたかった。
おじさんは翔をソファに座らせると隣に座って翔の手を握った。翔の顔をのぞきこんで「きみ、かわいいねえ」と言った。翔はかわいいなんて女の子みたいでちょっといやだな、と思ったけれど黙っていた。
おじさんは翔の体をあちこち触った。翔はまたくすぐったくて笑った。おじさんは翔の体をあちこち舐めた。翔はまたくすぐったくて笑った。
「きみ、かわいいねえ、良い子だねえ」
良い子と言われたのはずいぶんと遠い記憶で、翔は夢の中にいるような気持ちになった。
それから、おじさんと一緒の生活が始まった。おじさんは翔の面倒をなんでも見てくれた。ごはんも、あーんとして食べさせてくれた。お風呂も全部洗ってくれた。服も着替えさせてくれた。トイレがすむと拭いてくれた。翔はただ座って、おじさんのしたいようにさせてあげた。なんでも言うとおりにしてあげた。おじさんはいつも嬉しそうに翔の体を舐めまわした。
翔はどんどん大きくなった。翔が大きくなるごとに、おじさんは笑わなくなった。翔の七歳の誕生日、おじさんは翔を小さすぎるチャイルドシートに押し込んで車を出した。窓の外、あの日見た景色が逆回しになった。見覚えのあるスーパーが、公園が、家が、近づいてきた。翔は泣き叫んだ。
「おじさん、いやだ、ぼくを捨てないで!」
おじさんは車を走らせ続けた。翔は泣き続けた。
車は人通りのない林のそばに止まった。ママの家のすぐそばだった。おじさんは車のドアを開けると、翔をゴミ袋のように持ち上げて道に放り出した。
「おじさん!」
翔が追いすがるのを突き飛ばして、おじさんは車を急発進させた。遠くなる車を見つめながら、翔は泣きじゃくった。
泣いている翔を見つけた警察官がいろいろ聞いてきたけれど、翔は何もしゃべらなかった。
パパが迎えにきて、翔は田舎のおじいちゃんの家に行った。おじいちゃんは翔がまたさらわれるのが怖くて翔を閉じ込めて育てた。翔は学校に行かずに大人になった。
おじいちゃんが死んで、翔は独りぼっちで、つまらなくて、家を出た。ぶらぶら歩いていると小さな男の子を見つけた。五歳くらいだろう。見ていると無性に舐めまわしたくなった。
翔は優しげな笑顔を浮かべて男の子に近づいた。男の子は不思議そうに翔を見上げた。翔は言った。
「おじさんと一緒においで。お菓子をあげるよ」




