指環
指環
噴き出す蒸気に思わず一歩退く。それでも、時間に追われ、一歩を踏み出し、ワイシャツを躯体にかける。美和は吹き出る汗を、ポロシャツの袖口でぬぐった。プレスをかけてもかけても、際限なくワイシャツは追加される。
だれも、手をとめない。
だれも、無駄口をたたかない。たたく暇はない。
クリーニング工場で必要なスキルは、第一に「何時間もだまって作業できること」だと美和は知った。その点、美和は、だれよりもプレス作業に向いている。
同じ工場内でも、シミ抜きや、毛皮などの高級品作業だと、同僚との連係プレーが必要になる。同じように見える汚れでも、一つ一つ、汚れの原因物質は違い、その対応法も多岐に渡るからだ。
美和は、コミュニケーションが苦手だ。
そのことには、幼稚園のころから気付いていた。幼稚園で、美和は、一人も友達を作れなかった。
正確にいうと美和は、友達を一人も必要としなかった。
砂遊びも、ボール遊びも、お遊戯も。美和は、ただ、受け流すだけだった。どんな遊びも、美和には関心がもてなかった。つまらなかった。
そんな美和の行動は、もちろん、幼稚園の先生には引っ込み思案な子として心配の種だったし両親にも、不安要素として映った。しかし、それは、小学校に上がると、杞憂だと思われた。
小学生になると、自分のことを自分でできて、なおかつ、他人のぶんの片づけまでできる美和は優等生として扱われた。
「これはしなくてはいけません」と与えられれば何でもこなし、
「みんな助け合いましょう」と言われれば人のぶんまでめんどうを見た。
美和には、それらは全く苦にならなかった。いっそ、たのしかった。
中学高校は、クラス委員に選ばれ、生徒会長も当然のようにまかされた。
やるべきことは、すべてやった。やるべきことを、生徒全員に伝える最善の方法を考え出し、すべて伝えた。高校卒業時、美和は、全生徒から祝福される卒業生であった。
美和の不幸はずっと昔から始まっていた。
他人から要求されることは、なんでもこなした。他人から要求されることにはなんでも答えた。
しかし、美和は、自分がやりたいことを、考えたことがなかった。
大学も、もっとも成績優秀だったという理由で奨学金を受け、地元で最難関の県立大学工学部に入った。実家から大学が遠かったため、初めて親元から離れ、一人暮らしをした。
しかし、美和は工学に、まったく興味がなかった。
やるべきこととして、必要な単位はすべて取った。勉強は美和にとって簡単だった。科学も数学も物理も英語も。ただ、おぼえて反復するだけ。
しかし、大学3年目。専門課程を決める時。美和は生まれて初めて、難しい問題に遭遇した。
自分が学びたいこととは、いったい、なんだろう?
美和は考えて考えて考えて考えた。
しかし、どれだけ考えても、自分が選考すべき専門課程が何か、まったく見当もつかなかった。
美和は考えて考えて考えて考えた。
その結果。すべてを捨てて、旅に出た。大学も。奨学金も。両親も。安定という名の未来も。
そして、今日、美和はワイシャツにプレスをかけている。
自給で働くアルバイト社員に、雇用側の要求は厳しい。いかに短時間で、いかに顧客の満足いく仕事をするか。それは、機械的にアウトプットされ、一時間ごとに精算される。一時間に何枚のワイシャツをプレスできたか。そのワイシャツの仕上がりに顧客からのクレームはないか。
美和は、この仕事に、えも言われぬ充実感を感じていた。自分の労働のすべてが正しく計測され、時間と精算個数に応じて評価される。こんなに合理的なことは、ほかにない。こんなにやりがいがあることも。
そう、思っていた。
ワイシャツの機械プレス、と一口に言っても、そこには様々な問題が発生する。
飾りボタンがついていれば、手アイロンになるし、シルクのシャツもプレス機ではダメだ。安物のワイシャツは、何度も洗濯するうちに型崩れし、プレス機の躯体に沿わなくなる。
熟練者であれば、どんなに型崩れしようと、躯体に沿わせ、完璧なプレスをかけることができる。美和も、その熟練の一人である。
が、彼女もやはり、そんな手間ひまかかるワイシャツよりは、躯体にかければスっと通り、苦もなく美しくプレスされるシャツが好きだ。
なかでも、美和にはお気に入りのシャツがある。と、いうより、お気に入りのシャツの持ち主がいる。
その持ち主(美和は「彼」とよんでいる)のシャツはすべて質の良いコットンで、仕立てもいい。たぶん、オーダーメイドで、糸やボタンまでこだわっている。汚れやシミもほとんどない。
彼のストイックな生活が目に見えるようだ。
美和は、彼のシャツが手元にまわってくるたび、思わずほほえみ、手間ひまかける必要もないのに、できる限り十分な時間をかけて、プレスした。
ある日、店舗担当者がインフルエンザで急に欠勤した。
ベテランの美和が、工場から離れ、店舗に詰めることになった。店舗勤務はヒマだ。日がな一日、レジの前に、つったっている。客が来なければ、することは、ほぼ、ない。
その日は雨で、客足が落ちることは約束されたも同然だった。
美和はめずらしく、有線放送の流行曲を聞きながらボンヤリ過ごした。たまに客が来て、ぽつりぽつりと洗濯物を置いていった。美和は、てきぱきと水洗い、ドライ、手仕上げなどと区分し、レジを打った。
そろそろ閉店という夕暮れ、雨足はますます強まった。
これはもう、お客は来ないな、と美和が思ったころ、ざざ降る雨の中、スーツを着た男が傘もささずに店にやってきた。手にはスーパーのビニール袋を一つ、持っている。
「いらっしゃいませ」
美和は決まり文句でむかえる。男はだまって、ビニール袋をカウンターに置く。
「会員証は、お持ちですか?」
美和が聞くと、男は、ふと、顔をあげたが
「……あ。忘れました」
と、また、うつむく。
「では、お電話番号をお願いします」
美和がマニュアルどおりの対応をし、男が答える。なんの問題もなく受付し、美和はビニール袋の中身を取り出し、確かめる。
ぎょっとした。
「彼」だ。
このワイシャツは、「彼」だ。
美和はそっと、上目遣いに「彼」を盗み見る。こんな高級なワイシャツを着ている人とは思えないほど、なにか、憔悴している。
そういえば、今来ているスーツもワイシャツも、仕立ては高級だが、なぜか垢じみてみえる……。
美和は初めて「彼」の姿を見て嬉しいのか、それともこんな疲れきった姿を見て悲しいのか混乱して、地に足が着かないようなフワフワした気持ちを味わった。
「では、お渡しは明後日の朝9時以降になりますが、よろしいでしょうか?」
「はい、いつでも…」
「彼」は、受取証を受け取ると、ざざ降りの雨の中、傘もささずに立ち去った。
美和はしばらく呆然と「彼」の後姿を見送った。激しい雨のカーテンのせいで、すぐに「彼」の姿は見えなくなった。美和は、あらためて、自分の手の中のワイシャツを見下ろす。見慣れた、いつもの、仕立ての良い「彼」のシャツだ。
思わず、ぎゅっと、抱きしめる。水洗いされない「彼」のにおいのするシャツを。
しかし、すぐにハッとして、美和はシャツから手をはなした。
いけない。
これは大切なお客様からの預かり物。すぐに洗いに回さなければ。そう思い、伝票と一緒に工場行きの袋にシャツを入れようとしたとき、美和は指先に違和感を感じた。シャツの胸ポケットに、何か入っている。
手探りで取り出すと、ダイヤモンドが一列に並んだ女性ものの指輪だった。
これは……、結婚指輪ではないだろうか?
あわてて「彼」を目で追うが、姿はもう見えない。どうしよう、「彼」に会えて、有頂天になって、チェックを怠った。美和は焦って、店から飛び出し「彼」を追おうとした、が
「工場行き車だすよ、追加ない!?」
背後から大声で集配担当のヨネさんが叫ぶ。
「あります!」
美和は叫ぶと、手に持ったリングを胸ポケットに押し込み、急ぎの商品を車に積み込んだ。「彼」のワイシャツも共に。
数日後、美和は工場でいつものプレス業務に戻った。
店舗担当の女の子は外出禁止だったらしjく、結局、一週間近く店舗で受付業務を担当した。ひさしぶりのプレス業務にもどり、ほっとする。やはり、人と顔を合わせない作業は好きだ。思う存分、シャツにプレスをかける。
水洗いを経てしわくちゃになったシャツが、美和の手でまっすぐにプレスされる。斜めになった生地も、縫い目も、ポケットも、まっすぐになる。美和は至福のときを味わった。
と、「彼」のシャツが手元に回ってきた。
どきり。
とする。
「彼」は、美和が最初に店舗業務についてから、一週間、あらわれなかった。以前は二日おきにはシャツが洗いに回されていたのに。
なにかあったのだろうか? 彼も、インフルエンザか何かだったのだろうか?と思って、美和は、ハッとした。
結婚指輪!!!
一週間前、彼のワイシャツから出てきた指輪を、忙しさにかまけて忘れていた。あわてて、胸ポケットを探る。
ある。
普段の工場勤務なら、毎日、制服のポロシャツを洗いに出すので、ポケットに何か入っていれば、その日に発覚する。しかし、美和は一週間、店舗勤務だった。
初日だけは急のことだったので工場から制服のまま店舗へ向かったが、次の日からは私服だった。うっかりした。自宅でポロシャツを洗った時に、ポケットをチェックしなかった。アイロンすらかけなかった。歯ぎしりしても、遅い。美和は、お客様の所持品を、隠匿してしまった……。
結局その日、美和は工場長に、指輪のことを言い出せなかった。
その日に限って、みょうに品数が多く、話すどころではなかった、ということもある。が、なにより、美和自身が。この指輪を手放したくなかったから、と言う理由が大きい。「彼」との唯一の接点を、なくしたくなかったのだ。
しかしこれが窃盗の罪に値すると、美和は重々承知していた。うつむき加減にとぼとぼと家路についたが、指輪が入ったポケットがずっしりと重い。
返しにいこう。
美和は突然そう決意すると、まだ陽が高い道を、店舗に向かって駆け出した。
「いらっしゃいま……あ、宋崎さん、おつかれさまです。先日はご迷惑かけてすみませんでした」
全快した店舗担当の山崎が美和を見て頭を下げる。さいわい、店舗には他に人はいなかった。
「いえ、とんでもないです。おかげさまで、久しぶりに受付業務を復習できました。病気回復されてよかったです」
美和は四角四面なお辞儀で丁寧な返答を返す。
しかし、その後、何と言ったらいいものか。勢いだけで店舗に飛び込んでしまったことを後悔しだしたころ、山崎が気を利かせて、たずねてくれた。
「何か、忘れ物でも?」
「あ、あ、そうなんです。傘を、私、傘をロッカーに忘れちゃったみたいで…」
「しっかりものの宋崎さんも、忘れ物するんですね。ちょっと待っててください、見てきますから」
そう言うと、山崎は店舗奥の従業員ロッカーに入っていった。美和は、なれない嘘に胸をどきどきさせながら、出来上がり商品が積んである棚をのぞく。
たくさんの衣類が山積みされているが、
彼のシャツを、いつも大切にプレスしている美和には、一目で見つけることが出来た。急いで、貼り付けてある伝票に書かれた、彼の住所を読む。須崎町3−8−5−301。
「宋崎さーん、傘、これとこれが持ち主不明ですけど、どっちですか?」
奥から山崎が戻ってきた。手に赤と黒の傘を持っている。
「あ、あ、ごめんなさい、どっちも違うみたい…」
「あらー。そうですか。じゃ、ここ以外で忘れたんですね?工場じゃないんですよね?」
「え、ええ。なくて…。あの、ごめんなさい、お仕事中にお手間をとらせました。ありがとうございました!」
美和は90度に深々とお辞儀をすると、山崎の顔を見られぬまま、店舗から走り出た。
「ありがとうございましたー…、あ、ちがうか」
背中に山崎のとぼけた声が聞こえる。それを聞いて、美和はやっと走るのをやめた。
大丈夫だ。彼女は何も気付かなかった。傘を忘れたという嘘も、私が伝票を盗み見したことも。彼の指輪のことも…。
美和はポケットの上から、そっと指輪をさわってみる。
とても小さなまるいもの。それなのに、なぜかポケットがいっぱいに膨らんだように感じる。何度か、指先で指輪の感触をたしかめて、美和は須崎町へと足を向けた。
目的の彼の家はすぐにわかった。最近、住宅地として造成が始まったばかりの区画に、マンションは一軒だけだった。伝票にあったとおり301号室に向かい、美和はためらうことなく、チャイムを押した。
彼か、彼の家族が出てきたら、ほんとうのことをすべて話して詫びるつもりだった。
警察沙汰になってもいいと思っていた。しかし、何度かチャイムを鳴らしたが、どうやら留守のようだった。
出直すしかないだろうか、と迷っていると、エレベーターホールから中年の女性が歩いてきた。
「あら、松本さんのお知り合いの方? お通夜は、ご自宅じゃなくて、葬儀社であってますよ」
「そうぎ?」
「ええ。薬院の緑水社、ご存知かしら?」
「え、ええ。わかります」
「ほんとに、ねえ。松本さんの奥さん、まだお若いのにかわいそうに。私も今、香典袋買ってきたところなんですよ。何せ、急なことでしたから」
「あ、あの、では、あの……、ご主人は」
「ご主人さんは病院から直接、葬儀社にいらしてるみたいですよ。今朝、松本さんのお母さんが喪服を取りに来られてたから」
「そうですか……あの、失礼しました。ありがとうございます」
「いいええ。失礼します」
そう挨拶すると、女性は302号室に入って行った。
「奥さんが、亡くなった……」
美和はポケットの上から指輪を押さえ、呆然とした。
いつも地味な服装なのが、幸いして、美和は香典袋を買うと、そのまま聞いたばかりの葬儀社に向かった。葬儀社の入り口には「松本家 通夜 葬儀会場」と看板が立っている。ひっそりとしたロビーを通り、矢印にしたがって通夜の会場へと向かう。まだ夕方早い時間のためか、弔問客はあまりいない。
受付に立っている女性に香典袋を渡し、記帳して通夜会場に入る。祭壇には、美和と同年輩らしき女性の遺影が飾られている。
美和は、ポケットの中の指輪をぎゅっと握りしめた。そのまま祭壇に近づき、焼香もせずに棺桶の中を覗き込んだ。
きれいな。
きれいな死に顔だった。
健康的に笑った遺影とは雰囲気がまったくちがった。写真の中の彼女は、かわいくはあるが、明日にはきっと忘れてしまうだろう顔立ちだ。
しかし、棺桶の中で眠る彼女のうつくしい顔を、美和は、きっと一生忘れられないだろう。
しばらく、ぼうっと見つめていると、横から声をかけられた。
「なつみのお友達?」
見ると、真っ赤な目で、しかしやわらかく微笑をうかべた女性が立っていた。
「きれいな顔でしょう? まるで今にも起き上がりそうな……眠ってるだけにしか……」
そう言うと、女性はうつむいてハンカチで口をおおった。美和はかける言葉が見つからず、黙礼すると、焼香をすませ、会場を出た。
そのまま立ち去ろうとすると、後ろから今の女性が声をかけた。
「どうぞ、おときを召し上がっていって、そちらのお部屋に用意してありますから」
「い、いえ、私は……」
「お願いします。どうかもう少し、娘のそばにいてやって」
真っ赤な目でそう言われ、美和は断りきれず、精進落としの膳が並ぶ部屋に入っていった。
息を、のんだ。
彼が、部屋のすみで、畳をじっと睨んだまま、座っていた。部屋には、ほかにだれもいない。
美和は、だまって彼の前まで歩くと、彼と対峙して座り、ポケットから指輪を取り出し、差し出した。彼はふらっと顔を上げ、目を見開いて指輪を見た。
「………なつみの」
しばらく無言で指輪を睨んでいた彼は、それだけつぶやくと、ぼろぼろと泣き出した。くちびるを噛んで、嗚咽を飲み込むようにして泣き続けた。
指輪をそっと、彼の前に置くと、美和はその場を後にした。
それ以来、彼とは顔をあわせたことはない。彼のシャツにプレスをかけたことも。
美和は、バイトを辞めた。やりたいことが見つかったわけではない。だけど、何かつかんだような気がしたのだ。あの日、彼に指輪を渡した時に。
葬儀場からの帰り道、美和は泣いた。
物心ついてから初めて、人目をはばからず大声で泣いた。
握りしめていた幸運と、はかない夢を手放した悲しみを泣いた。
通りすがりのおせっかいを泣いた。
自分の浅はかさを泣いた。
そうして、彼女の冥福を、心から祈った。
やりたいことは、まだ見つからない。
だけど、きっと、人と関わる仕事をはじめるだろう。
たくさんの人の笑顔や涙や怒りや。生き生きとした顔を見る仕事を。
そのときのために、美和はいつも、空っぽのポケットを持っている。