本能
本能
ああ、自分の命は長くないなと『こころ』は思った。古本屋と読書家の間を行ったり来たりしてきた古本人生は、この買い手の元で終わるだろう。
夏目漱石が書いた『こころ』の文庫本は何人もの手に触れ、時とともに紙は黄ばみ、表紙は日焼けした。それでも今までの持ち主は本を大切にする質で『こころ』もページ折れや書き込みなどの憂き目に会わずにきた。
けれどその幸運もここまでだ。『こころ』をつかみ上げた男は、思いきり裏表紙をカーブさせて『こころ』を握り、紙を引き裂きそうな勢いでページをめくり、レジの台の上に『こころ』を放り出したのだ。
読書家には二種類あるのを『こころ』は知っている。
ひとつは本の紙質や装丁、余白の美しさなど、内容だけでなく本自体を愛するものたち。
またひとつは本の内容にしか興味がなく、本などというものは読んでしまえば用はなくなるというものたち。
百円で『こころ』を買った男は、明らかに後者だった。雨が降るなか傘を持たない男は、頭の上に『こころ』をかざし、肩をすくめて走っていく。小さな文庫本でしかない『こころ』では、いくばくの雨も遮ることはできない。ただただ『こころ』が濡れて紙に雨がしみただけだった。
男の家についたころ、『こころ』はぐずぐずに濡れそぼって、絞れば水がしたたりそうだった。男は、下駄箱の上に『こころ』を投げ出して玄関の灯りを消し、部屋に入っていった。窓もなく真っ暗な玄関で『こころ』は冷えきった悲しみを感じた。
『こころ』はそのまま二ヶ月放置された。湿っていた上に埃がつもり、ぬぐいきれないほど固くこびりついた。男は『こころ』に気づかぬ様子で過ごしていたが、ある日、ゴミ出しに向かう時にふと『こころ』に目を留めた。『こころ』は濁りきった心で男が持つゴミ袋を眺めた。男は『こころ』をつかみあげるとゴミ袋に入れてドアを出た。
ゴミ捨て場で、ゴミ袋の中で、『こころ』は自分の行く先、ゴミ焼却炉の業火を思った。なにもかもを焼き尽くす炎が、『こころ』に染み込んだ雨も埃も悔しさも灰にしてくれるだろう。
なぜか幸せだった古本屋や読書家たちとの生活のことは、ちっとも思い出さなかった。しきりに心に浮かぶのは、雨の中、走る男の頭の上にかざされた時のことだった。あの日、あの時たった一度だけ、男は『こころ』を必要としたのだ。たった一度だけ。
ゴミ収集車がやってきた。『こころ』が入ったゴミ袋は軽々と持ち上げられ、収集車のタンクに放り入れられた。
するどいスクリューがゴミ袋ごとゴミを押し潰す。生ゴミまみれの『こころ』はへしゃげて、曲がって、暗闇のなかに消えた。