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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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京都へ行こう

京都へ行こう


 京都に旅行に来た理由は『なんとなく』。どこかに旅行に行きたいと思ってはいたけれど、とくにあてもなく。そもそも一人旅をするような勇気も今まで出なかったから、今回思い切ったときに有名な観光地なら旅慣れていなくても楽しめるのではないかという頭はあった。

『そうだ、京都行こう』

 ずいぶん昔のコマーシャルのコピー。うちの夫が生きていたころには意味もなく「そうだ、京都行こう」、「そうだ京都行こう」と疲れるたびに繰り返していた。言うだけ言って、とっとと一人で死んでしまったので、結局、一緒に京都を訪れることはなかった。


 一人で新幹線に乗って京都駅に降り立ったところまでは順調だった。けれどそこで私は途方に暮れた。どこへ行ったものか見当もつかなかったのだ。京都の神社仏閣の名前はいくつか知っていたけれど、京都内のどこにあるのか、どうやって行くのか全く知らない。そもそも神社にもお寺にもそんなに興味はない。

 夫が生きていたならば、あれやこれやと計画を立てて、あちらこちらと連れまわされて、私は宿についたら「ああ、しんどかった」と言って……。

 頭を振って思い出を振り落とす。せっかく知らない土地に来たんだもの、新しいことを考えないとダメ。駅前にずらりと並んだタクシーに乗ってみることにした。タクシーなら、私一人でも乗れるから。


「お願いします」


「はい、どこに行きましょ」


「ええっと……、どこがいいかしら」


 私の頓狂な言葉に、初老の運転手さんはちっとも動じなかった。


「観光ですか。行き先は決まってない?」


「ええ、そうなんです」


「ほなら、私のおすすめのとこ、ご紹介しましょか」


「お願いできますか?」


「はい。ほな行きましょ」


 運転手さんは車を発進させて、バックミラー越しに私に質問してきた。


「お寺さんは行かはりますか」


「その、あんまり興味がなくて」


「ほな、神社も?」


「ええ」


「ほな、女性やし、食べ物はお好きでしょ」


「ええ。大好き」


 運転手さんは満足した表情で「ほな、行きましょ」と繰り返した。


 二十分後、私はなぜか市場にいた。

『錦市場、言うんですわ。京の台所言われてます。京都の食べ物買うならここですわ』

 そう言って運転手さんは私を降ろしてブーンと行ってしまった。私は再び途方に暮れた。市場なんて訪れたことがない。それこそどこに行けばいいかわからない。

 でも立ち止まっていると通行の邪魔になる。大勢の人が行きかう道を、私は流されるように市場の中へと入っていった。

 卵屋さん、川魚専門店、お漬物屋さん、雑貨屋さんやカフェ、文房具店もある。見ているだけで楽しい。特に八百屋さんには知らない野菜がたくさん並んでいて、あれもこれも買ってみて料理したかった。けれど旅先で生鮮食品は買えない。それにひとりきりでは料理のし甲斐もない。でも惜しくって、横目でにらみながら通り過ぎた。

 乾物屋さんの前で私の足は止まった。山のように樽に積まれた鰹節。その薄さは繊細な薄衣のようで、手に取ったらサラリと消えてなくなりそうなほど儚く見えた。じっと見つめていると店主が声をかけてきた。


「味見していってや」


「味見?」


「うまいで」


 店主が鰹節をひとつまみ、私の手のひらに乗せてくれた。私は鼻を近づけて匂いをかいだ。あたたかな海の匂いがした。口に入れると見た目の儚さとは違ってしっかりとした噛みごたえがあった。噛んでも噛んでもいつまでも旨味が口の中に広がる。こんなにおいしい鰹節は今まで食べたことがなかった。


「うまいやろ。うちの鰹節は京都一、うまい。つまり、日本一や」


 胸を張る店主に小さく拍手を送って、私は鰹節を買うことにした。


「旅行なら三日分くらいを持って行かはるのがいい」


 店主はそういうと、ひとかかえある大きなビニール袋にわさわさと鰹節をいれた。布団の綿を打ち直すときみたいに、ふんわりと、鰹節をつぶさないように気を付けながら。

 私は片手に旅行鞄を、もう片手に鰹節のビニール袋を抱えて市場を抜けた。



 旅から帰ってまずしたことは荷ほどきではなく、鰹節の出汁をとること。いっぱいのお湯を沸かして、ぐらぐらしている中に、ひとつかみの鰹節を入れた。鰹節はすぐにシュンと縮んでしまう。次から次と鰹節を握っては鍋に投げ入れていく。思うだけの量を入れたときには、ビニール袋はきっちり三分の一、小さくなっていた。

 台所に白い湯気が広がってだんだん暖まってくる。鰹節の香ばしいような優しいような、懐かしい美味しいにおいが漂う。一人きりのキッチンで、きちんと出汁をとるのは久しぶりだった。

 ざるに布巾を敷いて鰹節を漉すと、くたくたになった鰹節はそれでも美味しそうにつやつやしていた。このまま捨てるのはもったいないと、佃煮にすることにした。夫がいれば喜んだだろうなと思いつつ、布巾を軽く絞った。

 その夜、一人きりの食卓は、なぜかとても華やかに感じられた。鰹節の香りがそう思わせたのだろう。仏前に上げたお味噌汁を、夫も同じ思いで飲んでいるのかもしれない。

『そうだ、京都行こう』

 また旅行に行きたくなったら、私はきっとそう言うだろう。

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