妻を休む
妻を休む
『今日は遅くなる』
夕方、夫からのメールを見てまり子は小躍りした。比喩ではなく、チャールストンのステップを踏んだ。
そのまま浮かれ気分でキッチンに向かい、夫のための夜食をつくると、エコバッグと財布だけを持って家を出た。商店街に向けてスキップしていく。
商店街は夕飯の買い物の主婦でにぎわっていた。まり子は魚屋で刺身を、肉屋でコロッケと唐揚げを、うどん屋でおでんとおはぎを買った。そのままスキップで酒屋に向かった。
「くださいな〜」
店の奥に声をかけると、『月桂冠』と書いてある紺色の前掛けをしめた女将が出てきた。
「あら、まり子ちゃん、めずらしい」
「へへへ〜。こんにちは、おばちゃん。今日はうちの人、残業なの」
「鬼のいぬ間に独り酒? 風情があるねえ。いつものでいい?」
「うん!」
女将は店のど真ん中に置かれた鏡開きに使うような大きな一斗樽から四合瓶になみなみと日本酒を注いだ。まり子は期待に満ちて瓶をにらむようにする。
「はい、お待ちどう。千円ね」
通常より多目に注がれた日本酒を受け取り、まり子が支払いを終えると、女将が駄菓子をひとつエコバッグに入れてくれた。
「まり子ちゃん、これ好きだったろう。おまけ」
「わあ、ありがとう」
目をきらきら輝かせるまり子を女将は懐かしげに見つめる。
「あの小さいまり子ちゃんが今では立派なウワバミだもんねえ。アタシも年をとるわけだわ」
「おばちゃんはまだまだ若いよ」
「いやあ、最近は酒もなかなか入らなくなっちゃって。まあ、まり子ちゃんの旦那ほどじゃないけどね」
「うちの人は特別だよ。匂いだけで倒れるんだもん」
「難儀な旦那をつかまえたねえ」
「うん。肝臓のためにはいいけどね」
「今日は好きなだけ飲みな」
「そうする〜」
まり子は子供のように女将に手を振って、スキップで家に帰った。
家事を全部すませて風呂も終わらせ、酔いちくれてすぐに寝られるように準備してから飲み始める。
冷蔵庫の中で半年冷え続けた缶ビールを取りだし一人で乾杯する。テーブルに並べたごちそうをつつきながらグイグイ飲む。すぐに二缶目にかかる。
コロッケと唐揚げはビールで。刺身とおでんは日本酒で。箸の順序をそう決めて揚げ物二種をやっつけた。
「うひひ」
怪しい笑い声をたてながら日本酒の蓋を開けて香りをかぐ。杉の樽の香りがうつった日本酒を薩摩キリコのぐい飲みに注ぐ。表面張力で盛り上がった酒を「おっとっと」と言いながら口から迎えに行く。
唇をとがらせてズズッとひと舐め、目を細めて喉を鳴らす。
「くあぁ、たまらん」
もうひと口日本酒をすすって、刺身を舌にのせて半ば噛んだところへ日本酒を流し込む。まり子はうっとりと刺身と日本酒が合わさった夢のような旨さを堪能した。
刺身で一合、おでんで二合、あいまに喉を潤すためにビールをひと缶。デザートのおはぎでまた一合。
「ああ、おなかいっぱい」
日本酒の瓶をぐい飲みの上で振って、最後の一滴をすすり飲み、まり子の至福の時は終わった。
「ただいまー」
玄関から夫の声がして、まり子は機嫌よく迎えに立った。
「お帰りのちゅー……」
まり子が夫の首に手を回そうとすると、夫は鼻と口を押さえて後ずさった。
「なによう、失礼ね」
「酒くさい!」
叫んだ夫の顔がみるみる赤くなり、力が抜けてふらふらと座り込んでしまった。
「あらあ、大丈夫?」
夫そばにしゃがんで顔をのぞきこむと、夫はケタケタ笑いだした。
「酒くさい!」
「もう、失礼ね〜」
「俺はもうだめだ」
笑いながら宣言した夫は、その場でぱたりと眠ってしまった。
「あらあらまあ」
まり子は急に真顔になると、夫の腕を引っ張ってなんとか廊下に上げた。毛布を持ってきて夫にかけてやると、まり子の酔いはすっかり醒めていた。
「さて、片付けるかな」
主婦の顔に戻ったまり子はてきぱきと働く。主婦休みは終わり。夫のイビキをBGMに、日常が戻ってきた。次の休みを楽しみに、まり子は冷蔵庫に新しい缶ビールを詰めた。