いつからかピアノは
いつからかピアノは
ピアノ教室からの帰り道、美智子はふと足を止めた。どこからかピアノの音が聞こえてきたのだ。
日暮れた住宅街は冷えきって、耳をすませても物音はコソともしない。空耳かと歩き出そうとした時、もう一度聞こえた。
遠く引きずるような、悲しみを叫ぶような音だった。たどたどしい指使いはこどものもののように思えた。だが、長年こどもたちにピアノを教えてきた美智子だが、こんなに激しい感情を音に載せられる子に会ったことはなかった。
どんな子が弾いているのだろう。美智子は切れ切れに聞こえるピアノの音をたよりにその子を探した。
途切れながら弾いているその曲は、ピアノの初歩の初歩、バイエルの練習曲だった。指にピアノの動きを手っ取り早く覚えさせるためにと美智子もこどもたちに教えていたが、それだけに単調で面白味にはかける教本だ。
それをこの子は、しっかりと楽譜を追うことさえ出来ないのに、自分の心の音にしている。美智子はこの子の姿を一目でも見たい気持ちでいっぱいになった。
音は意外と近くから聞こえていた。音源の家の前に立って美智子は首をかしげた。
半分かしいだような木造平屋の家の中は電気がつけられていないらしく窓は真っ暗だ。
その窓辺から聞こえる音はピアノにしては音量が小さい。サイレンサーを使っているにしては音質がいい。いったいどんなピアノを使っているのか、なんとか覗けないかと窓の向こうを透かし見ようとしていると、背中から声をかけられた。
「あの、うちになにか?」
あわてて振り向くと、初老の婦人が恐る恐る、といった風情で美智子をうかがっていた。美智子は急いで頭を下げた。
「すみません、あやしいものじゃありません! 私、梅鉢ピアノ教室の講師をしております、梅鉢美智子と申します」
「ああ、駅前の……」と呟いて、婦人はやや緊張を解いた。
「突然すみません。ピアノの音が聞こえて気になってしまって」
「ああ、お耳障りでしたね。ごめんなさい。すぐ止めますから」
背を丸めて小刻みに頭を下げる婦人を、美智子は両手を振って止めた。
「違うんです! 違うんです! あんまり素晴らしいから、聞いていたんです」
「素晴らしい? あの子のピアノが?」
「感情豊かで力強くて……。どこかの教室に通っているんですか?」
「いいえ、まったく」
「お子さんに会わせていただけませんか!」
婦人は驚いて目を丸くしている。それよりもはるかに美智子は自分の熱意に驚いていた。
昨今の少子化で減り続ける生徒数にも、辞めていく講師たちにも、こんなに熱心になったことはない。小さな頃から続けてきたピアノにもこんなに情熱が湧いたことはなかった。美智子はいつも冷めていた。
「うちの子に……、ですか?」
「はい、なんとかお願いします」
深々と頭を下げる美智子をしばらく見ていた婦人は固い表情でうなずいた。
狭い玄関を通って通された居間には一台のアップライトピアノがあった。誰も弾いていないのに鍵盤が動いている。
「自動演奏?」
鍵盤はたどたどしい音そのままに不安定に上下している。
「録音ができるんです。これはあの子が最後に弾いた曲……」
「お子さんは?」
「亡くなりました。十三年も前に。ピアノももう弾くことはないし、壊れて勝手に演奏が始まったりするんですけど。処分することなんかできなくて」
婦人はそこに子どもがいるかのようにピアノを見つめた。
「音も間延びして、もう音楽ですらないのかも知れないけれど……」
「素晴らしい、音楽ですよ」
美智子はピアノの音に耳をすませる。
「細やかな指使いと懸命な姿勢が見えるようです。哀調にあふれて、涙が出そう」
「ああ、そうなんですね。この曲を聞いて私が泣きそうになるのは、感傷ではなくて、感動してるからなのね」
嬉しそうに笑う婦人の目元に涙が溜まった。
「私はあの子のピアノを誇りに思います」
その家を出るとき、婦人は美智子に頭をさげた。
「うちの子のピアノを聞いてくださって、ありがとう」
美智子は丁寧にお辞儀を返すと家とは反対に、ピアノ教室に向かって歩き出した。なんだか無性にピアノを弾きたかった。
一晩中でも弾いていたい気持ちだった。