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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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繰り返すのか、それは永遠に

繰り返すのか、それは永遠に

 私が死を選ばない理由はただひとつ。死後の世界が本当にあるのかどうか分からないからだ。死後の世界……。考えただけで吐き気がする。この苦しい世の中から消えてなくなりたいのに、死後の世界というものがあって、死んでも苦しみが続くなら死は救いになんかならない。私はただ消えてしまいたいだけなのに。


 産まれた時から人間に馴染めなかった。他人が近くにいるのが苦痛だった。私にとっての「他人」とは私以外の全ての人間のことで、親兄弟と一緒にいることも辛かった。辛いと初めて感じた記憶は私がまだ一歳にもならないころだったろう。抱かれていることに激しい嫌悪感を抱き、大声で泣いた。親はますます私を抱きしめ、私は疲れ果て気を失うまで泣き続けた。


 世の中はそんな子供を放っておいてはくれない。何軒もの病院の門をくぐり、何人もの医者が私の体に、頭に、あるいは精神に触れた。そのたび私は身震いして泣き叫んだ。救いはどこからもやってこない。全世界から人間が消えてなくなることも、私が消えてなくなることもできないまま私は成長した。母乳も、人肌に温められたミルクも気持ちが悪く飲まずにいた私は、ほぼ点滴だけで日を過ごした。がりがりで自力で立つ力もない赤ん坊になり、病院のベッドから出られない子供になった。声を出すのは泣き叫ぶ時だけ、話しかけられても反応しない。そんな私が少し楽になったのは二歳の時、弟が生まれた時だった。親の関心が弟に向かい、私は放っておかれるようになった。なんて素晴らしい日々だったろう。点滴を受ける時とおむつを代えられる時、筋肉のマッサージをされる時以外の時間、私はひとりだった。どこまでも透明なひとりきりだった。


 死という概念を知ったのは三歳のころ。弟が死んだそうだ。親は狂ったように泣き喚いていた。私は抱きあって泣く人間たちを気持ち悪く見ていた。あんなに触れあえば、それはそれは不快なことだろう。しかし親たちはその抱き合う輪の中に私を入れた。私は火がついたように泣き喚いた。その姿が弟を亡くした悲しみをうたいあげているようにでも見えたのか、親はますます私を抱き、離さなくなった。地獄の日々が始まった。


 毎日目が覚めている時間、私は叫び続けた。身をよじり親の腕から出ようともがいた。親はそれでも私を離さなかった。

 自殺というものがこの世にあるということを知ったのは、あと少しで四歳になるという日の夕暮れだった。母が私の目の前で死んだ。自らの手で自らの首に自ら刃物を突き立てた。私の顔に、体に、生温かい血が飛びかかった。今までに感じたこともない嫌な感触だった。他人に触れられるより、抱かれるより、何よりも不快だった。泣き叫ぶ私から血が拭いさられたのは、それから二日たった後のことだった。二日間、母の死体は私の眼前に転がったままだった。


 施設というところに私は移動したようだった。たくさん並んだベッドに一人ずつ子供が寝ている。手を伸ばせば触れられてしまうくらいの距離に人が寝ている。私は恐怖で手足を縮めた。起きている時も寝ている時も手足を縮め続け、私の体は思う通りに動かなくなった。

 死後の世界ということを知ったのはそのころだ。隣のベッドの子供が死んで、その親が言ったのだ。


「どうか生まれ変わって、また私達のところに戻ってきてね」


 ぞっとした。死ねばまた繰り返すというのか、この苦しみを。この痛みだけの世界をまた味わわなければならないのか。母は死に、生まれ変わったのだろうか。どこかで苦しみを繰り返しているのだろうか。私は初めて憐れみという感情を抱いた。


 母の幽霊を見るようになったのはそれからだ。深夜、子供たちが寝静まったころ、気付けばベッドのわきに立って私を見下ろしている。長い髪が垂れかかり、もう少しで私の顔に触れそうになっている。その髪に触れられたくなくて私は逃げようともがく。けれど思い通りに動いてくれない体は、もがけばもがくほど母の近くに引き寄せられていく。母が手を伸ばし私の頬に触れようとする。私は泣き叫ぶ。


 果たしてそれが夢か妄想か、本当のことなのか、私にはわからない。ただ、いつでも死ねる弱々しいこの命を必死で長らえさせているのが母の幽霊のせいだということだけは、はっきりと分かっている。死んで幽霊になどなれば、私の苦しみは永遠に続くだろう。

 ああ、朝が来た。幽霊は去り、地獄がやってくる。他人が私のそばに来て私に触れる。その痛みに私はじっと耐え続ける。ただ、じっと。 朝と夜は交互に私にやってくる。私はただじっとしている。

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