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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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無常といふこと

無常といふこと

 病院の売店にはなんでもそろっている。もちろん、ブランドバッグや金塊はない。あるのは入院に必要なものだ。

 パジャマ、タオル、洗面用品、箸、コップ、スリッパ。道で突然に倒れた身寄りのない人も病院の売店があれば一安心だ。もちろん、金があればの話だ。

 俺はありがたいことに金を持っていた。パンツを買い、ひげそりを買った。しばらくは寝たきり生活だったから、ひげそりを買ったのは歩行器を使って歩けるようになってからだ。しばらくは大人用紙おむつだったのでパンツも日がたってから買った。

 売店でひとつひとつ必要なものを揃えていると、生活に必須なものはごくわずかなのだと気づかされる。寝床と食うものとトイレが保証されていれば、あとはなんとかなるものだ。俺は二枚きりのパンツを履き替えながら、のほほんとしていた。


 入院から一週間後、それは大いなる勘違いだと気づかされた。ヒマなのだ。病気の山を越えて、あとは安静だけだと言われると、ヒマが身にしみた。テレビも一日中見ていたら、一日であきた。酒はのめない、タバコもすえない、マージャンもできない、することがない。自分の世界の狭さを思い知らされた。


 売店に行った。新聞、雑誌、おやつ、レジのおばはん。ヒマをつぶせそうなやつは、それくらい。いや、文庫本もある。けれど、俺は読書はしない。本はきらいだ。中学生のころ、読書感想文に泣かされてから絶対読んでやるもんかと誓ったんだ。読書はしない。


 その決意は三日でやぶれた。することがないのだ。俺は恐る恐る文庫本を手に取った。生まれてはじめての経験に鼓動が激しくなった。悪いことをしているわけではないのに、人目が気になって仕方ない。周りをうかがうと売店内に人はいない。レジのおばちゃんまでいない。

 手に取った文庫本をそっと開く。たくさん並んだ文字にひるんで慌てて閉じた。書棚に戻そうと勝手に伸びる手を、意思の力でなんとか押し止めた。ここで戻してしまったら、俺の退屈は頂点を越え、気が狂ってしまうかもしれない。それにくらべれば本の一冊や二冊、恐いもんか。

 短編評論集とかいう、内容も、どんなものかもわからない本をレジに持っていくと、いつの間に戻ってきていたのか、おばちゃんが文庫本を受け取ってレジを打った。おばちゃんの視線が俺と文庫本のアンバランスさを笑ってる気がしてきた。俺の目は泳ぎ、冷や汗が流れた。震える手でなんとか金を払い病室に戻った。


 キャスター付きのテーブルに放り出すように文庫本を置き、ベッドに上がり込んで正座した。腕組みして文庫本を見据える。

 やってしまった。買ってしまった。いったいどんな顔をして表紙を開けばいいんだ。

 この病室にはしなびたじいさんが三人、それぞれ静かにテレビを見ている。向かいのベッドのじいさんは半分眠りかけている。

 俺はカーテンを引いてじいさんたちの視線から文庫本を隔離した。これであとは俺と文庫本の勝負だ。再び文庫本を手に取る。緊張して題名も読めない。とにかくページをめくる。たくさんの文字が目に飛び込む。文字、文字、文字……。目が回る。

 バタンとベッドに倒れた。文庫本が顔の上に落ちてきた。鼻がつぶれるかと思った。危ない。やっぱり本は危ない。文庫本をテレビの横にそっと置いた。


 することなくまたテレビをつけたが、横の文庫本がちらちらと目に入る。682円の威力は強い。不思議な吸引力がある。しばらくテレビと文庫本を見比べていたが、気になって気になって、文庫本に手を伸ばした。

 最初からいこうと思うからいけないんだ。きっと真ん中くらいが一番面白いんだ。

 目をきつくつぶって、ど真ん中のページを開いた。このページだけは読むぞ、何がなんでも、このページだけは。決心してから薄目を開けて、そうっと見る。

 右のページは真っ白で、左のページには太い文字で『無常といふこと』とタイトルだけが書いてあった。

 そうか、無常とはこういうことなんだなあ。俺は文庫本を静かに閉じた。

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