ホイップかぼちゃのマフィン
ホイップかぼちゃのマフィン
秋も深まってくると、こずえは今でもあの時のことを思い出す。
五十に近づき病気ばかりで入退院を繰り返していたときに正義と出会った。同じ病院の、こずえは婦人科、正義は脳神経外科にいた。病院の喫茶室でお茶を飲んでいたこずえに正義が話しかけたのだ。
「すみません、お金を貸してもらえませんか」
こずえは瞬間、何を言われたかわからずポカンとした。ぜんぜん知らない人だ。背が高くて着心地良さそうな水色のパジャマを着ている。イケメンではないけれど感じの良い若い男性だった。恥ずかしそうな困ったような顔で頭を下げる。
「病室に財布を忘れてきてしまって……」
ああ、と言ってこずえは席を立ち、二人分のコーヒー代を支払った。正義はもちろん自分の分は返すと言ったが、こずえは息子といってもおかしくない年代の正義を甘やかしたくなったのだった。
それから何度かこずえは正義を見舞いに病室をのぞいた。こずえは手術を終えて退院まで四週間、正義は入院したばかりで、まだ治療方針が固まっていなと言った。
「ガンなんですよ」
喫茶室で向かい合ってコーヒーを飲みながら正義はなんでもないことのように言った。
「頭の中に小さなおできがたくさんできてるんだそうです」
「奇遇ねえ」
こずえの言葉に正義は首をかしげた。
「私もガンだったの。子宮ごと取っちゃった」
正義は優しく微笑んで「仲間ですね」とうなずいた。
「でも、子宮は取っちゃえばいいけど、頭は取っちゃったら困るわね」
「ええ。だから、放射線治療中心になるみたいです」
こずえと正義は妙にウマがあった。話がつきず、検査の時間に遅刻することもあった。二人とも甘いものに目がなく、毎日、喫茶室のケーキを一種類ずつ試していった。
「ここのケーキもいいですが、僕の作るホイップかぼちゃのマフィンは絶品なんですよ」
「お菓子を作るの?」
「ええ。趣味なんです」
「ホイップかぼちゃって変わっているわね」
「マッシュドパンプキンをホイップクリームとあわせて、硬めに焼いたマフィンに盛るんです、こんもりと」
「美味しそうね。食べてみたいわ」
「退院したら作りますから、また会いましょう」
「本当に? すごく楽しみ」
二人は明るく笑いあったが、正義の病気がどんどん悪くなっていることははっきりと見てとれた。
こずえが退院する三日前には、正義は病室から出ることを禁じられた。こずえがケーキを抱えて見舞いに行くと正義はベッドの背を起こして弱々しく笑った。二人は並んでケーキを食べた。正義はつらいのを隠して無理矢理にケーキを飲み込んでいるようだった。
「あなたのホイップかぼちゃのマフィン、楽しみだわ」
正義はこずえに笑ってみせた。
「ごちそうしますから、待っていてくださいね」
こずえは退院してから数日は細々した雑事をこなし、その疲れで早々に休む日々が続いた。一週間ほどたち、やっと落ち着いて正義に会いに病院に舞い戻った。
けれど病室に正義はいない。ナースステーションに行くと顔見知りの看護師が、正義は容態が悪く集中治療室に移されたのだと教えてくれた。こずえは持ってきたプリンを看護師に預けた。
「甘いものなら彼も食べられるかもしれないね」
看護師の言葉はどこかしんみりとしていて、こずえは明日、病院に来るのが恐くなった。帰宅して一人きりの家で、日没をいつもより早いと感じた。
翌朝は雨だった。激しい降りに外出をためらったこずえは、窓にうちかかる雨粒の音に気持ちばかり急き立てられた。けれど足はどうしても病院に向いてはくれなかった。これではまるで正義の最後を看取ることを恐れているみたいじゃないかと、こずえは発起して台所に立ち、マフィンを焼いた。普段お菓子など作ることはない。インターネットで調べたレシピでおっかなびっくり作った。できあがりはどこかべたついていたけれど、食べられないほどではない。なんの飾りもないプレーンなマフィンを抱えて、こずえは雨の戸外に出た。
ざあざあと雨が強くこずえの傘に叩きつける。こずえはマフィンを入れた紙袋を濡らさないよう胸にしっかりと抱いて病院へ向かった。一歩一歩が重かった。マフィンの袋さえ落としそうなほどに重かった。けれど立ち止まらずに歩いた。
正義は元の病室に戻っていた。こずえの顔を見て力なく笑った。こずえはほっとして椅子にくずおれるように座った。
「マフィンを焼いてきたの」
正義はベッドにもたれたまま、小さくうなずいた。
「早く元気になって、ホイップかぼちゃを作って、このマフィンに乗せてくれなくちゃ」
正義はまたうなずいた。その笑顔がほんとうに嬉しそうで、こずえはつられて笑顔になった。
その夜、正義の容体が急変して亡くなったと知ったのは、それから三日後。こずえがやっと美味しいマフィンを焼けるようになった日のことだった。こずえは病院の屋上に上って一人でマフィンを食べた。抜けるような青空の下で、秋風がみょうに身に沁みた。
それからもこずえはマフィンを焼き続けている。今ではプロ顔負けと言われるほどの腕前になった。けれどこずえが焼くマフィンはいつもプレーンだ。 友人は「他の味も焼いてみたら?」と言うけれど、こずえはプレーンマフィンを焼き続ける。
いつかホイップかぼちゃを乗せる日が来るような気がして、その日をひとり待っている。




