ギシギシと。
ギシギシと。
光太の自転車はこぐたびにギシギシと嫌な音をあげる。高校までの道を走っている最中に分解してしまうのではないかと思う。車道を走っていて隣をトラックがすり抜けていく時など、ひやりとする。けれど壊れてしまえばいいのにとも思うのだ。
「光太、まだスクラップに乗ってるのかよ!」
学校の駐輪場に自転車を停めていると前沢が三階の窓から身を乗り出して叫んだ。隣にはカスミがいる。
「大変だなあ、貧乏人は!」
カスミが前沢のシャツの袖を引っ張って止めようとしているが、逆効果だ。前沢はカスミの前で光太をおとしめたいのだ。光太はそれをよく知っていた。
「お前、バイト代で自転車買えよ!」
光太はぎょっとして窓を見上げた。カスミが前沢の腕を強く引いて窓から遠ざけた。前沢のにやにや笑いが尾をひいたように、いつまでも光太の目に残った。
「……失礼します」
弱々しくうなだれて職員室から出てきた光太は肩を落としたままトイレの個室に入った。扉にもたれ、力が抜けたようにしゃがみこむ。
バイトのことがバレてしまった。校則で禁止されているのを承知で、こっそりバイトしてるやつは他にもいる。遊ぶ金を稼ぐために。けれど光太は違う。生活がかかっている。そんな事情を担任も察しているからか、反省文の提出とバイトをやめることで停学はまぬがれた。
授業始めを告げるベルがなっても光太はじっと顔を伏せたまま考え込んでいた。光太は祖父と二人暮らしだった。生活の基盤は祖父の年金に頼っている。それだけでは足りないところを光太がバイトで補っていた。
廊下が無人になって静かになったのだろう。グラウンドの声がよく響いてくる。そう言えば一時間目は体育だったな、と思い出して教室に向かった。
誰もいない教室は、なぜか人がいる時より雑然として見えた。机の上にカバンや雑誌や色々なものが置きっぱなしになっているからかもしれなかった。光太は自分の席に座ると机につっぷして眠った。
人の気配にふと顔をあげると体操服姿のカスミがすぐそばに立っていた。何も言わずに光太を見下ろしている。気まずくて、光太は目をそらしてボソリとつぶやいた。
「……さぼり?」
「保健室に行くところ」
「……そうなんだ」
カスミは小さな頃から体が弱かった。今でも時おり何日も続けて休むことがある。顔色もどこか青白い。その血の気のない唇がほんの少しふるえた。
「ごめんね」
「なにが」
「厚のこと」
「べつに」
カスミは前沢を厚と呼び続けているが、光太は小学校を卒業すると同時に、その呼び方をやめた。
「バイト、やめなくちゃいけなくなったんでしょ」
「なんで知ってるの」
「厚が職員室をのぞきに行って」
「べつにいいけど」
前沢は昔からいつも誰よりも物知りでいないと気がすまなかった。どうやって知るのか、クラスのやつの秘密をいつの間にか知っていた。光太がカスミを好きだなんてことは会ったその日にバレていただろう。
三人はまわりからはいつも一緒の仲良し仲間だと思われていただろう。けれど厚は違った。光太はそのことに長い間気づかなかった。
「バイト、ほんとにやめるの?」
「やめるしかないだろ」
「だけど……」
光太は音をたて椅子を蹴って立ち上がり教室を出ていった。カスミは後を追うこともできず立ち尽くした。
自転車はギシギシと悲鳴をあげて走る。光太はがむしゃらにペダルをこいだ。こいでもこいでもどこにも行けないと知っているのに。
昼を過ぎても夕暮れてもこぎ続けた。どんどん暗くなって見知らぬ街を走った。ギシギシと。ギシギシと。
車のヘッドライトがつきだした。光太も自転車のライトをつけた。ギシギシとギシギシと音をたてて左右にふれる自転車の影が脇をすり抜ける車のヘッドライトに照らされて長い影をのばす。光太の後悔のように長い影を。
こいでもこいでも影はついてきた。どこまでもついてきた。厚の言葉が遠くなってもカスミの姿が見えなくても、どこまでもついてきた。
力尽きて地に足をついた時にはすっかり日がくれていた。光太はととのわない息を飲み、自転車を止めた。目の前の信号は赤だ。
足を止めれば旧式の自転車のライトは消えてしまう。もっと、もっと、もっと明かりが欲しくて、向かうなにかを照らしたくて光太はこぎ続けた。ふらふらになってもこぎ続けた。激しいクラクションが鳴ったとき、光太の意識はほとんどなかった。ヘッドライトがトラックの照射するヘッドランプにのまれたところを見た。光太は大きく弾き飛ばされた。
気づいたら白い天井を見つめていた。ぼんやりと白さを見ていると枕元でいびきが聞こえた。聞き慣れた祖父のいびきだった。自転車は無事だろうか。なぜか一番に頭に浮かんだ。
きっともうスクラップになってしまったのだろう。光太はギシギシと鳴く自転車を思って目を閉じた。
「大丈夫?」
声に目をさますと目の前にカスミがいた。遠慮のない祖父のいびきは聞こえず耳元の心音計のピッピッという音ばかりが耳についた。
「三日も意識がなかったんだよ」
見上げるカスミの目は真っ赤で、みるみる涙がうかんできた。
「また自転車に乗せてよ」
光太の記憶をカスミの言葉がかきまわした。そうだ、カスミを自転車のうしろに乗せて走ったことがある。
誰よりも早く自転車に乗れるようになった光太は厚を置いてカスミと二人で町外れまでこいで行ったことがある。すっかり日がくれていた。小さなヘッドライトは心もとなく道を照らしたけど、カスミと一緒なら恐くなんかなかった。あの日、ヘッドランプはまっすぐ、どこまでもまっすぐ、行く先を照らしていた。
「カスミ」
「なあに」
「自転車、俺、また買うよ」
「うん」
「暗くなっても一緒に行こうな、どこまでも」
「うん」
厚に、厚に言わなくちゃ。光太は胸のうちで誓った。
厚に言わなくちゃ。カスミのことが好きだって。厚よりずっと好きだって。
自転車のライトはまっすぐにどこまでも道を照らすから。




