始めなければ終わらない
始めなければ終わらない
小説家は悩んでいた。書きたいものがあるのに書き出しをちっとも思い付けないのだ。
良い書き出しさえあれば物語はぐんぐん進んでいく。野越え山越え谷を渡り、最後の崖を直滑降で大団円まで。その道行きのなんとも爽快なことといったら他の何にもたとえようもない。
書き出しは突然降ってくることもあれば、胸の底からぶわりと湧いてくることもある。どちらにしても唸りながら考えるわけではない。天然自然の言葉なのだ。
小説家は頭を抱えている。書き出しがないまま〆切がせまってくる。あと二週間、あと一週間と数えているうちは、まあ待てばいつも通り書き出しがやってくるだろうと思っていた。それが五日、三日となると顔色が青くなり、二日と迫ると蒼白になり、いよいよ明日が〆切という日に至り髪をかきむしり苦悶を表情に浮かべうんうん唸っているのである。
『振り返るとそこには女がいた。』
原稿用紙に書いてみてぐちゃぐちゃと塗りつぶす。その紙を破り捨て次の一枚を睨み付ける。
『いったいどう言ったらその女の美しさが伝わるだろう。彼女こそ女性のかがみであり、』
またぐちゃぐちゃと塗りつぶした。これは彼女の美しい人生を描いた重厚な救いの物語なのだ。単純な言葉ではだめなのだ。
『目があった誰もが彼女のしもべでありたいと願うのだ。』
何枚も原稿用紙を破り捨てては唸った。
その時、書き出しが降ってきた。きらめく言葉が脳内を駆け巡った。小説家は机にしがみつくようにしてペンを走らせた。
『美しい彼女は実は女装男子だということを、彼女を崇拝する男たちは知らない。』
どうやら今回の作品はコメディタッチになりそうだ。小説家はいきなり直滑降を始めた物語に戸惑った。純文学の雑誌へ寄稿するものなのだ、コメディが許容されるはずがない。しかし……。
小説家はカレンダーをちらりと見た。〆切をやぶってデッドラインまで編集を待たせて内容を変更できない時間にやっと渡そう、そうしよう。気持ちを決めた小説家は一気呵成に物語を書き上げ、しかし原稿催促の電話には「できない」「できない」と答え続け、目論見通り純文学雑誌にコメディを掲載させることに成功した。
物語の題名は『女装男子のジェットコースターLOVE』。あまりにくだらない内容に雑誌の読者は悶絶し、後ろにひっくり返り、厳しい反響が編集部に押し寄せた。
しかし編集部員はだれも驚きはしない。小説家が面妖な物語を書くのはいつものことだからである。
世の中で小説家が「キワモノ作家」と呼ばれていることを小説家は知らない。そして今日も天恵が脳に降ってくるのを待っている。




