背中 2
背中 2
俺が帰郷しなくなって二年になる。とくに理由はない。強いて言えば両親がすでにないこと、たいして良い思い出がないことくらいだろうか。
地元の友達というのも数人はいたが、会いたいと思うほど親しくしていたわけでもない。孤独というほど人付き合いがないわけでもない。
ただ、ぼんやりと生きている。それだけだ。
故郷のことを思い出すとき、真っ先に浮かぶのは嵐の海だ。真っ暗な夜闇のなか、なぜか波頭の白さがくっきりと見え、ごうごうと風と雨が顔に叩きつける。
そんなところに行った覚えはなく、映像で見たか、なにかの心象風景かとあまり気にもとめていなかった。その一枚の絵を見るまでは。
画面いっぱいに、ただ荒れ狂う海が描いてある。空もない、海岸も船も何もない。ただ、海だ。真っ黒な額におさめられ美術館の壁に掲げられていた。作者の名前は橋田坂下。美人画で有名な作家だ。風景画も描くとは知らなかった。波だけのこの絵を風景画と言ってよいのかも分からないが。
俺の心の奥にずっとこの絵はあったのだ。俺はこの絵を知っていた。
橋田坂下の絵だけを扱う画廊があると、いつだったか聞いたことがある。うろ覚えの住所をたよりに繁華街に出てみた。しかし無駄に街をうろついても見つかるわけもない。帰ろうと駅に足を向けた時、知った顔を見つけた。
上品な美しい女性。黒く艶やかな髪は腰まで届き、パステルカラーのワンピースが彼女の肌の白さを柔らかく包んでいる。
この女性を確かに知っている。しかし、会ったことなどないはずだ。これほどの美人、一度会えば忘れるはずがない。
女性の視線がこちらに向いた。目があった瞬間、背中をかけ上がる何かを感じた。彼女に出会えた喜びの震えのようでもあり、彼女の視線にとらわれた恐れのようでもあった。
「どうかなさいました?」
彼女の声は高く澄んでいて白銀の鈴を思わせた。優しげに微笑む彼女を見て、やっと俺は思い出した。
「あなたは橋田坂下のモデルの……」
「あら、橋田をご存じなんですね」
「ええ、まあ。あなたを描いた絵が使われたテレビコマーシャルを見て知っている程度ですが」
「絵はお好き?」
「どちらかと言えば」
「橋田の弟の画廊がすぐ近くなんです。よろしければご案内しますけれど」
この有り得ない偶然に疑問も抱かず、俺は素直にうなずいた。




