ひちみといちみ
ひちみといちみ
親方は七味のことを「ひちみ」という。べつに江戸っ子なわけではない。江戸っ子ならば「ひ」を「し」と発音するはずだ。
ちなみに俺は彼を「親方」と呼ぶが、彼が人を束ねる職にあるわけではない。ただ「親方」と少々変わった苗字なだけだ。繰り返し言うが江戸っ子でもない。
親方は辛いものがめっぽう苦手で唐辛子など見せただけで脂汗を流し始める。それが面白いので一緒に蕎麦屋へ行くと七味の容器を彼の鼻先に持っていく。親方は両手で鼻と口を押さえて息を止める。蕎麦がくるまで、そのまま硬直している。一度など、待たされ過ぎて酸欠でぶっ倒れた。それくらい辛いものが苦手なのだ。
ならば一味はどうかと小瓶入りの一味を買って親方の目の前につきだした。親方は目をぱちくりとしてじっと小瓶を見つめた。
「なんだい、これ」
「一味だよ」
「いちみ?」
「知らないのか?」
「初めて見る。何なの?」
「唐辛子を細かくひいたものだよ」
親方は後ろにひっくり返り尻で這いずって逃げていく。俺は一味で親方を追いたてながら聞いてみた。
「なんで七味は知ってて一味は知らないんだよ」
親方は逃げながらも
「うちには辛いものはないからだよ」
と涙目でうったえる。
「じゃあなんで七味は知ってるんだよ」
「それは彼女が……」
言いかけて親方は、ハッと両手で口をふさいだ。
「このやろう、彼女なんか隠していやがったか」
一味の蓋を開けて、壁に親方を追いつめた。
「だって言ったら、ひちみ攻撃するじゃないか」
「言わなかったら一味攻撃だ」
しばらく一味で親方と遊んでやって気が晴れた。
「で、彼女と七味が盆踊りでも踊ったのか?」
「彼女がひちみダイエットしてるんだよ」
「なあ、前から思ってたけと、なんで親方は七味のことをひちみって言うの?」
「え? なんでってひちみはひちみでしょ」
「『ひ』じゃなくて『し』だよ。七種類の香辛料が使われてるから七味」
親方はぽかんと口を開けた。
「火を見るくらい辛いから火ち見っていうんじゃないの」
「違うよ。だいたい『ひ』と『み』はいいとしても、『ち』はなんだよ」
「辛くてはなぢが出るとか?」
俺は親方の鼻に向けて一味を思いきり振りかけた。『ち』が出たかどうかはご想像におまかせする。




