私は貝になりたい
私は貝になりたい
とにかく疲れた。ため息しかでない。蒼子は足を引きずるように電車に乗った。夕方の通勤ラッシュ、席は空いていない。せめて壁にもたれたかったが、それも叶わないほど混んでいた。
一日中おしゃべりに付き合わされた左耳がボワンと膨れているように感じる。蒼子は話すのが苦手だ。話しながら何かをするということができない。他社で研修を受けた今日、左隣に座った女の子は講師が口を閉じた瞬間に蒼子に話しかけ、蒼子がペンを置いて女の子に向き直ると、すでに彼女は講師に意識を戻していた。その繰り返しで蒼子は研修の内容が頭に入らず、無為に一日を過ごしてしまった。
独り暮らしをしていることも蒼子の口を重くしている原因かもしれなかった。実家にいた頃は一日に少なくとも四回は挨拶をしていた。おはよう、おやすみ、いただきます、いってきます。だが一人だとそれもない。職場では無言でパソコンに向かい、昼食も一人ひっそりと食べる。一週間、口を開かないことも珍しくなかった。
「あー! 時枝さん!」
大声で名を呼ばれ驚いた蒼子が振り返ると、左耳の彼女が人混みをかきわけて近づいてきているところだった。蒼子はひるんだが、その表情にも気づかぬようで彼女は笑顔で蒼子の右耳に攻撃をしかけた。
「偶然ですねえ。この路線だったんですね」
「ええ、あの……」
「私はこっちじゃないんだけど、今日は彼氏の家に行くんで」
「そうなんで……」
「時枝さんは結婚は?」
「いえ、ま……」
「私は来年の予定なんですよー。それで準備を始めたところで」
「それは、おめ……」
「暑くないですか? クーラーあんまりきいてないっていうか」
「私はちょうど……」
「あー、お腹すいた。時枝さんは今晩のごはん、どうします?」
「まだ決め……」
「うちは外食かなあ。たまにはいいですよね」
「そうです……」
「でも貯金したいし、あんまり外食続くのもどうかなあ、って。時枝さん、投資とかしてます?」
「私はとう……」
「元手がないと難しいですよね。私、今の仕事長く続けるつもりなくて。貯金してカフェを始めたいんです。時枝さんは何か目標とか……」
「私は!」
蒼子は何年ぶりに出したかわからない大きな声で彼女の言葉をさえぎった。
「私は貝になりたい」
「あ、それ、昔の映画ですよね。映画好きなんですか? 私はねー……」
蒼子の右耳がボワンとしてきた。なんだか水中にもぐったように音がにぶく聞こえる。彼女は止まらず喋りつづける。蒼子はますます水の底に沈んでいく。誰の声も聞こえない底の底に。
「じゃあ、時枝さん。私ここなのでー」
彼女が手を振って電車を下りた。音が戻ってきた。ざわざわと遠い潮騒のようにやわらかな蒼子一人だけの世界が。ふかくため息を吐く。電車を下りて明るいアーケードを抜けようとしているとスーツ姿の女性に話しかけられた。
「ちょっといいですか?」
「え、あの……」
「私たち、皆様の幸せのために祈らせていただいているんです」
「えっと……」
「時間はかかりません。少しの間目を閉じて」
「いえ、私は……」
「あなたの願いが叶うようにパワーを送ります」
「私は!」
突然の蒼子の大声に驚いた女性の口が半開きのまま止まった。
「私は貝になりたいんです!」
叫んだ蒼子は力一杯駆け出した。
なんだか無性に海が見たかった。




