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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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わかめうどんの女

わかめうどんの女

 うどんの麺の湯切りをしながら、幸作はちらりとカウンターを見た。彼女はいつもとおなじネズミ色の服で、おなじ席に座り、おなじ言葉を口にする。

「わかめうどん」

 幸作もいつも通り黙ってうなずく。

 その女性客が初めて店に来たのは一月前。ずんぐりとした体型で二十代後半くらいに見える。ショートカットの髪は癖毛でくしゃくしゃだった。

 のれんをくぐって店内を見渡した彼女はまっすぐにカウンターに歩みより厨房が一番よく見える席に座った。

「わかめうどん」

 そう言った後は黙って幸作の手元を見つめていて、カウンターに置いている新聞にも自分のスマホにも興味を向けることはなかった。


 やわらかめに湯で上がったうどんをしっかり湯切りして丼にいれる。

 鰹ぶしを主体に鯖ぶし、飛び魚、昆布などを調合した塩を使わないだしをなみなみと注ぐ。

 朝どりのわかめとねぎをのせてカウンターに運ぶ。

 黙って置かれた丼を彼女は黙って見下ろす。顔に当たる湯気でだしの温度を計っているようにも見える数瞬がある。おもむろに彼女は箸を取り、わかめだけを口に入れる。よく噛んで味わって飲み込む。

 箸でわかめと麺を掻き除けながら、だしを半分飲んでしまう。

 一口分のわかめとうどん一本を一緒に箸でつまんですすりこむ。

 うどんとわかめがなくなるとだしを飲み干す。ねぎの一欠片も残さない。

 丼の隣に四枚の百円玉を置くと彼女は黙って店を出ていく。それを毎日続けるのだった。


 幸作の店は月曜が定休だ。幸作は休日はめったに家から出ない。その出不精をおして外出したのは御中元という煩雑な風習にならうためだった。

 電車に乗って繁華街へ向かっている間、何とはなく窓の外を見ていた。瓦屋根の一軒家、白い壁のマンション、駐車場、コンビニ、茶色いビル……。流れていく景色の中に、わかめうどんの彼女を見つけた。思わず窓に顔を寄せる。

 彼女は高級そうなマンションの一室で窓のそばに立っていた。いつものネズミ色の服ではなく明るい色のスーツを着ている。室内には何人もの女性がパイプ椅子に座り彼女を見つめている。彼女はなにか講義でもしているようだ。

 首を伸ばしてそれだけが見えた。幸作はなにか見てはいけないものを見てしまったような後ろめたい気持ちになった。


 翌日も彼女はやってきてわかめうどんをすすって帰っていった。一週間ずっと同じように店に入り、同じように出ていった。

 月曜日、幸作はなぜかそわそわして落ち着かず家を出た。上り電車に乗り繁華街へ向かう。窓から外を見ていた。やはり彼女はマンションの一室にいた。先週とは違う、感じの良いスーツで感じの良い笑顔を浮かべていた。幸作は繁華街につくと向かいのホームに止まっていた下り電車に乗って引き返した。彼女が見える寸前に上り電車とすれ違い、車窓に自分の顔が写った。見たことがないほどいきいきした表情をしていた。

 それ以来、幸作は月曜になると電車に乗り、高級マンションの窓から彼女を眺めた。明るい色のスーツを着た彼女はわかめうどんをすすっている時とはまるで別人のように愛想がいい。講義を聞いている女性たちは、さも楽しそうだ。何度となく見ているうちにわかったのだが、彼女はなにか健康食品のようなものを販売しているらしい。瓶入りだから飲み物かもしれない。幸作はある日、マンションの最寄り駅で電車を下りてみた。

 マンションのエントランスはまるでヨーロッパかどこかのホテルのような豪華さだった。幸作はガラス扉から中を覗いてみたが人影はない。

 幸作はしばらくオートロックのガラス扉を眺めていた。エレベーターが一階につき、何人もの女性が出てきた。腕に健康食品の袋をぶら下げて楽しそうにおしゃべりしながら歩いていく。幸作に気をとめる者はいない。上下するエレベーターは次々と健康食品を抱えた女性を吐き出し続けた。幸作は明るい笑い声をぼんやりとは見送った。


 ネズミ色の服を着て彼女は毎日やってきた。幸作はふとかまぼこの薄切りを二枚、わかめうどんに乗せてみた。彼女は目の前に置かれた丼をいつもより長い時間見つめていたが、箸を取るとかまぼこをつまみ上げ、そっと噛んだ。時間をかけて、やっとという感じでかまぼこを飲み込むと、それ以上は箸をつけずに、四枚の百円玉を置くと店を出ていった。それ以来、彼女は店に現れなくなった。幸作はしばらくは月曜になると電車に乗ったが、マンションの窓にはぴたりとカーテンが閉められていた。


 詐欺事件のことは店でとっている新聞で知った。医学的根拠のないありふれた健康食品を口八丁で高額で売っていたらしい。その名前はマンションから出てきた女性たちが抱えていた紙袋にあった名前だった。詐欺師は行方がしれないそうだ。

 幸作は新聞をたたむと店を開けるため表に出た。残暑の陽射しが目を焼いたが、吹き過ぎる風は涼しかった。静かに秋が近づいていた。

 幸作は黙ってのれんをかけると店に戻った。

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