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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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悪魔は泣き叫ぶ

悪魔は泣き叫ぶ

 何もかもが面倒くさくて、匠は床に身体を投げ出した。とにかくダルい。体が重くて地面の底までずぶずぶと沈んでいってしまいそうだ。

 もう三日、部屋から出ていない。トイレ以外では立ち上がってさえいない。このまま腐った肉になってしまえたら、と匠は眠れないまぶたの奥で願う。

 玄関でブザーが鳴った。古いアパートの一室、インターホンなどという便利なものはついているわけもなく押せばにぶい悲鳴のような音を上げるブザーがドア脇についているのだ。匠はぼんやりとブザーの音を耳もとで聞き流したまま目をつぶっていた。

「匠! 死んだの!?」

 ドアを開けて駆けこんできた桃子が匠のシャツの襟元を両手で握ってがくがくと揺さぶった。

「……生きてるよ」

 匠はしぶしぶ重い口を開いたが、長い事音を発しなかった口から出たのはしゃがれて小さく聞き取りにくい声だった。

「なんで電話に出ないのよ!」

 匠は返事をする気力も失って、四肢に力も入らない。桃子は両手を離し、匠の頭はごん、と音を立てて床に落ちた。痛みがほんの少しだけ匠の意識をはっきりさせた。

「とにかく起きなさい、そんで何か食べなさい」

 桃子は勝手に部屋の中を歩き回ってカーテンと窓を開け、床に落ちている衣服を拾って一隅にまとめ、冷蔵庫を覗いた。

「なんにも入ってないじゃない! ちょっと買ってくるから、その間に起きてなさいよ」

 足音高く出ていった桃子のかかとを見つめながら、匠はほんの少しだけ指先に力を入れた。なんとか指は曲げられた。大きく息を吸って吐いて、ごろりと転がる。うつ伏せになって手足を縮め正座の形で起き上がる。自分の体から腐臭が漂う。暑い部屋を閉め切って寝ている間にゾンビになっていたのかもしれない。

 座ってぼうっとしている間に桃子が帰ってきて、買い物袋からスポーツドリンクの2リットルパックを取り出し匠の前に置いた。

「とりあえず飲みなさい」

 匠は言われたとおりペットボトルに手をかけたが、手に力が入らずキャップを開ける事ができない。桃子はキャップを開けると台所に立った。その辺りを這いまわっている虫を片っぱしから叩きつぶしてシンクと鍋を洗いお粥を炊きはじめた。匠はなんとか一口だけ喉に流し込んだスポーツドリンクが、体の中でさらなる重みを生んだような気がした。


 桃子は大学に入ってからできた友人だ。友人だと匠は思っている。桃子はどうやら匠のことを庇護対象として見ているようだが。

 桃子はいつでもパワフルだ。大股で嵐のようにやってきて、竜巻のように去る。いつも背を丸めて倒れ込みそうな弱々しい匠の背中を力いっぱい叩き「元気がないぞ!」と怒鳴る。匠は桃子のパワーに当てられてますます体が重くなっていくのだが、桃子にはそんなことは想像もできないだろう。匠だってうまく説明できる自信はない。二人の間の溝はどんどんと深くなっている事に桃子は気付きはしない。

「それだけしか飲んでないの!」

 お粥を丼に移して運んできた桃子が頭ごなしに匠を責めるような大声を出す。匠は床に這いつくばるようにして、もう一口スポーツドリンクを飲んでみせた。

「はい、食べて!」

 桃子から手渡された丼とスプーンは重くて重くて今すぐにでも床に投げだして寝そべってしまいたかったが、桃子のきつい視線がそれを許さない。匠は痛む右手を叱咤してお粥を一口すすった。どろりとしているだけで、なんの味も感じられない。匠の舌は味わうことさえできないくらい疲弊していた。

「食べないから力が出ないのよ!」

 桃子はスプーンを取り上げると匠の口にお粥を突っ込む。匠は舌をやけどしながらお粥を飲みこんだ。食べることが、どれほどにエネルギーを使うことか、桃子には一生涯分かることはないだろう。それだけのエネルギーを桃子はいつも発散しているのだから。匠は桃子を憎みたかったが、憎悪するエネルギーさえ匠は持っていなかった。

 匠に丼いっぱいのお粥を飲みこませると桃子は掃除を始めた。掃除機がたてる音すら匠の耳を疲れさせる。匠が床に倒れこむと「ほら、邪魔!」と桃子が匠を追いたてる。匠は部屋の隅に膝を抱えて身をすくめていた。桃子のパワーが部屋中の埃を掻き集め、巻きあげ、吸い込んで、部屋の中はぴかぴかになった。その輝きも目に痛くて、匠は目をつぶった。

 きっと僕達は永遠に分かりあえない。僕は桃子みたいなエネルギーを嫌悪するし、桃子は僕を怠惰だとののしりつづけるだろう。

「ねえ、これも飲んでみて」

 桃子は買い物袋の中からサプリメントの瓶を取り出して匠の手に錠剤を乗せた。

「滋養強壮のサプリ。体が元気になったら心も元気になると思うの。毎日飲んでね」

 ああ、と匠はまた体が一層重くなったことに気付いた。ああ、桃子には一生涯、僕のことは分からないだろう。桃子は善意にあふれていて、僕の心はその善意にあてられて腐って腐臭を放っていくというのに。

「ご飯もしっかり食べなきゃ。それから、お風呂にも入って。講義のノート、コピーしてきたから使って。それから……」

 早口でまくしたてる桃子に体も心も桃子を好きでいた最後の思いの欠片まで粉々にすりつぶされて匠は抱いた膝に顔をうずめた。

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