待合室にて
待合室にて
精神科の待合室には色々な人がいる。杖をついているお年寄り、親に連れられた小学生、何日も風呂に入ってなさそうな男性、部屋着のまま出てきたようなスッピンの若い女性。
様々な顔ぶれだが、一様に皆、暗い。病院の待合室は大抵明るくはないものだが、精神科の暗さは独特であると思う。皆自分の人生に手一杯で他人に関わりたくはないのに周囲の人に妙にシンパシーを感じる。いつもは世の中の「ふつう」に耐えて暮らしているけれど、ここにいるときだけは素の自分でいても咎められることはない。「詐病だ」と罵る家族もいない。
精神科の医師は他の診療科の医師よりわがままだと思う。それは体という目に見えるものと対峙するより、目に見えない精神と向き合う方がストレスが増すといった問題もあるかもしれない。けれどそれ以上に誰かの精神の在処を問うには自らの精神をもって触れ合わなければならないのではないからではないかと思う。
誰かと向き合う時、人はわがままでなければならない。相手に合わせっぱなしでいることは相手にべったり付着して相手まかせに寄りかかっているということだ。自分の足で立ち、自分の考えをもち、自分の責任で人に向き合う時、その「自分」を人はわがままというのだろう。
わがままにわがことを話すというのは勇気がいることだ。もしわがままの言葉を否定されたら、それはわが精神を否定されるようなものだからだ。誰も自分を否定されたくはないだろう。だからわがままでいることは一般的には歓迎されるものではない。わがままな人を人は恐れる。
精神科の待合室には妙なシンパシーが満ちている。わがままを剥き出しに、けれど静かに、自分と深く向き合っている。
わが心のままでいられる明日を夢見ている。




