海へ行こうよ
海へ行こうよ
そう言えば夏なんだった、と馨が思い出したのは真樹が「海へ行こうよ」と言ったからだった。海……。あの日以来、一度も行っていない。真樹が海で死んでから。
真樹と馨が付き合いだしたきっかけは二人の名前だった。真樹と書いて「まさき」。馨と書いて「かおり」。性別不詳の名前のせいで苦労した共通体験が二人を結びつけた。二人の名前が並んだ表札で訪問販売員を惑わせるという冗談を半ば本気で話し合っていた。
真樹は冬の海で死体になって発見された。事故か自殺か分からないまま馨の手の届かない、石のお墓の下に消えた。
けれどある夜、真樹は馨の元に戻ってきた。いつも馨の側にいて話しかける。馨はいつでも真樹の言葉を耳元で聞いていた。
「海へ行こうよ、馨」
真樹が繰り返した。
「そうだね。それもいいかもしれないね」
馨は財布だけを持って長袖のカーディガンを着こんで真夜中の街へ出た。鍵もかけずに歩き出す。ガラガラの電車に乗って座席に埋もれるように座った。
真樹は馨の隣に座って黙って微笑んでいる。
「真樹、嬉しいのね。私が海へ行くのが」
真樹はただ黙って微笑み続けた。
海岸に立つと真っ暗な中から荒い波の音だけが聞こえてくる。あの日もそうだった。
この海岸は波が高く、サーフィンの愛好者が集まる。昼は明るくにぎやかだが、夜になると松林に厚く閉ざされ街明かりも雑踏の音も届かない。ただ波の音が聞こえる。真樹はそんな夜の海が好きだった。二人はよくここに来ていた。
「真樹、あの日したこと、もう一度繰り返そうか」
馨が見上げても真樹はまっすぐ海を見て微笑んでいる。
「じゃあ、私、海に入るね。あの日みたいに溺れたふりするから、だまされて助けに来てね」
馨は海に向かって足を踏み出した。一歩一歩、波音に近づいていく。
「やめなさい」
突然腕をつかまれた。驚いて振り返ると、見知った中年の男だった。遺体安置室で真樹の側に立っていた刑事だ。
「どうして、ここに……」
「あんたを尾行してたんだよ。やっぱり、あんたが彼を海に引き込んだんだな」
「離して!」
馨は刑事の腕から逃れようと身をよじった。カーディガンから見えた肩には痛々しいアザがついていた。馨は刑事の目からアザを隠すようにカーディガンを引っ張り上げた。
「彼はいつも、あんたを殴っていたそうだね」
馨は抵抗をやめ黙って俯いた。
「耐えられなくなったんだね」
刑事はそっと手を離した。
「あんたが死んでも、彼は戻らないよ」
「……いるわ」
馨はゆっくりと腕を上げて自分の隣を指差した。
「ここにいるわ。待ってるのよ、私を。真樹は私がいないとだめな人だから。私がいってあげないと……」
「誰もいない。そこには誰もいないんだよ」
馨が見上げると、ただ真っ暗な波音が響いているだけだった。どこまでも孤独な闇だけがそこにあるのだった。




