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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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蕎麦粥の味

蕎麦粥の味

 幸代の子ども時代は空腹の記憶である。戦後間もなく生まれた幸代の家は貧農で、食べるものはかろうじて自足できたが、子ども五人の大家族、腹を満たすというには程遠かった。

 父がGHQの仕事を始めたのは幸代が四つの頃。貧しさの中でも幸代の父は飲む・打つ・買うの放蕩を続け、母が屑拾いをして稼いだ金でなんとか糊口をしのいでいた。そんな家に突如として米兵がわんさと押し寄せた。父が仲良くなった米人を見境なしに招いたのだった。もてなし好きの母は人好きのする質で米兵たちもよくなついた。遠い故郷の母の影を写したものもいたのだろう。年若いそれらの兵に母は同情したのか、畑で採れたわずかな野菜でなんとかごちそうを作ってやり、もてなした。座敷でがやがやと宴会が行われていいる時に幸代と兄弟達は台所の隅で蕎麦がゆをすすっていた。

 蕎麦は土壌を選ばない。植えればすぐに実をつける。幸代の家では日常の食事が蕎麦がゆだった。蕎麦の実を塩を少し入れた湯で煮る。それだけの料理だったので、米兵が来ている時には兄が鍋をかき回したが、なぜか母が作る蕎麦がゆとは比べものにならなかった。幸代は母の蕎麦がゆが食べたくて禁じられていた座敷の襖をそっと開けた。目だけをのぞかせて座敷を見ると、若い米兵たちは母が作った煮物や漬けものをむさぼるように食べていた。母の味をみんなが横取りしている。幸代は怒って襖を蹴破ろうとした。

 その時、幸代に気付いた米兵が襖の側に顔を寄せた。初めて見る青い瞳に幸代は怯んだ。一団の中でもとびきり若いその米兵は彼の皿の上から母が作ったきんちゃくの煮ものをひとつ取り上げると幸代の口に運んだ。幸代は冷えてしまったきんちゃくを必死に噛みしめた。求めていた母の味で、知らなかった米兵の優しさだった。きんちゃくを飲みこんだ幸代の頭を米兵は優しく撫でてくれた。母のきんちゃくはお揚げの中にひき肉と春雨を炒めたものが入っており、かんぴょうで口を結ばれ甘辛く炊いたものだった。若い米兵たちにもその味は分かったようで大皿からすぐにきんちゃくは消えていく。少年は取って置きを幸代にくれたのだった。

「コンニチハ」

 庭でままごとをしていた幸代に生垣の向こうから米兵の少年が声をかけた。顔を上げると、きんちゃくをくれたあの少年だった。驚いた幸代は家の中に走って母を呼び、縫物をしていた母は、よっこいしょと腰を上げた。

「あらまあ、ぼうや、どうしたの」

 母は片言の英語で、少年は片言の日本語で会話を続けた。幸代は親指を吸いながらふたりの会話をぼんやりと聞いていた。

「かみん、かみん」

 母は少年の手を取り家に招き入れると、蕎麦の実を洗いはじめた。

「かあさん、あの子、なんて言ったの?」

 幸代が聞くと、母は手を止めずに答えた。

「あの子ねえ、国に帰るんだって。その前に母さんの料理をもう一度食べたいって」

「きんちゃく?」

「ううん、きんちゃくじゃなくてねえ、いつも、あんたたちが食べてるご飯が食べたいんだって」

 幸代は「ふうん」と首をかしげながら返事をした。

 炊きあがった蕎麦がゆは土鍋の中でふつふつと湯気を上げている。少年は目を輝かせて母から蕎麦がゆがこんもり盛られた小鉢を受け取った。

「熱いから気をつけてね」

 日本語が通じたのかどうか、少年はふうふうと吹いて冷ましてから蕎麦がゆを口に入れた。

「ウヒ、フワチ! アウ!」

 それでも熱かったようで少年は身をよじる。母と幸代はその姿を見て笑い転げた。少年は照れ臭そうに、けれども嬉しそうに微笑んだ。少年は土鍋に残った最後の一口を幸代にくれた。ぱくりとレンゲをくわえた幸代の口の中いっぱいに蕎麦の香ばしい香りと温かなとろみが広がった。それは今まで食べたどの蕎麦がゆよりも美味しかった。


「蕎麦の実をお粥にする蕎麦がゆってのがあるんだって」

 長女がそう言った時、幸代が一番に思い出したのは少年兵のことだった。

「健康にいいらしいよ。蕎麦の実買って来たから作るね」

 幸代の父はGHQでの人脈を活かした商売で一財産を築いた。娘達は貧しさを知らない。

「わあ、香ばしくて美味しい」

 今や健康食としてもてはやされる蕎麦がゆを幸代は寂しく眺める。

 幸代が眺めている間に、蕎麦がゆはきれいになくなってしまった。

「蕎麦がゆ、どんな味だった?」

 幸代が聞くと長女が不思議そうな顔で答えた。

「わりと美味しかったわ。母さんも食べればよかったのに」

 幸代は深く息を吐くと座っていたソファに体をもたせかけた。

「私はこの世で最高の蕎麦がゆをもう食べたのよ。だからいいの」

 長女は不可解なものを見る目で幸代を見た。

「もう、いいのよ」

「じゃあ、それより美味しい蕎麦がゆを作るわ。だから、今度は食べてね」

 そう言って笑う長女は、どこか少年兵の青い瞳を思い起こさせた。


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