午酔
午酔
休日には朝から酒を飲むようになったのはいつからだろう。もう完璧なアル中だ。仕事に行く前に酒を飲まないだけでもマシと自分を甘やかしているが、肝臓の数値は悪化の一途をたどっている。
元来、酒は好きな方だったが、妻子が家を出ていってから、とみに酒量が増えた。家で一人でいると、時間が自分を押しつぶしそうになる。こんなに一日が長かったなんて知らなかった。妻子がいた頃には、一人になりたい、自由な時間が欲しいなどと思っていたが、そんなものは身の丈に合わないわがままだったのだ。俺は一人では生きていけない弱い人間だ。誰かがそばにいないと夜も越せない。だから酒に逃げて酔いに任せて眠るしかないのだ。
「木崎さん、昨夜飲みすぎました?」
「え? なんで?」
「アルコールの匂いがしてますよ」
同僚が笑いながら去っていく後ろ姿を俺は呆然と見送った。昨夜もいつも通りの酒量だった。特に飲みすぎたということはない。いや、いつだって、毎日飲みすぎなのだ。とうとう肝臓が限界をむかえ、分解されなかったアルコールが皮膚から蒸発しているのだ。
俺は早退して病院に行くことにした。同僚からは「二日酔い、お大事に」と声をかけられ、曖昧に頷いておいた。
「まあ、りっぱな脂肪肝だわね」
かかりつけの内科に健康診断の結果表を持参すると、見慣れた女医は嬉しそうに頷きながら数値を読み上げた。
「どう、アルコール依存症の治療、してみる?」
しばし迷ったが、俺は首を縦に振った。これ以上、失くすものはなかったが、これ以上、なにも失くしたくはなかったから。
専門医は精神科だと言うので、紹介状をもらって近所の精神科にむかった。精神病患者の中に混ざるというので、少なからず緊張した。危害をくわえるような凶暴な患者がいたらどうしようとびくびくしながら門をくぐった。
「ご紹介の方ですね、連絡をいただいております。問診票に記入いただいてお待ちください」
受付の職員は感じがよく清潔だった。清潔なのは病院も一緒で、すみからすみまで埃一つ無いようだった。間接照明でやわらかい光に満たされた落ちついた待合室には低くクラシック音楽が流れている。問診票を書きながら他の患者をそっと観察してみたが、内科で行きあう人たちと変わりはない。ただちょっと、雰囲気が暗いような気がするくらいだ。自分の偏見を少し恥じた。
「木崎さん、診察室へどうぞ」
呼ばれて中に入ると、立派な頬ヒゲをたくわえた六十年配のガタイのいい医者がじろりと俺を見た。酒の飲みすぎを叱られるんだな、と来たことを後悔した。
「木崎さん」
医者の声はどこまでも低い。
「大変な時を過ごしてきたんですね。酒の力を借りなくちゃならない日々があったんですね」
ふいに目から涙がぼろりと落ちた。俺はあわてて袖で顔を隠した。
「けれど、酒に人生を乗っ取られて黙ってはいなかった。ここへ来たあなたの勇気を、私は称えます」
涙は次から次からあふれた。俺はそんなに褒めてもらえるような人間じゃない。ここに来たのも恐かったから、それだけだ。けれど、泣きながら、俺は人生をやり直そうと酒から手を引こうと思った。
そうして禁酒に成功したら、妻子をむかえに行こう、頭を下げて戻って来てもらおう。そう思った。




