おもとのこと
おもとのこと
父が亡くなり、母と折り合いが悪かった武は大学の近くに部屋を借り、一人暮らしを始めた。母は引っ越し準備を遠巻きに眺めているだけだったが、武がいよいよ家を出るという日、一つの植木鉢を差し出した。
「引っ越し先に一番におもとを持って入ると運が開けるっていうの。持って行きなさい」
母の験担ぎも普段は無視されているのに、こんな時だけ母親ぶることにも腹がたったが、事を荒立てるほど子供ではなく、なにもなかったことに出来るほど大人にはなれず黙って植木鉢を受け取った。
不安定な植木鉢を膝に乗せて運んだために、新しい部屋に一番に運び込むことになった。他意はない、ただの偶然だ。
武はそれ以来、実家に帰ることなく就職し、結婚し、子供を育てた。
子供が就職し一人暮らしを始める時に、武はふとおもとの事を思い出した。一人きりの部屋に、青々としたおもとが一つあるだけで心に火が灯ったようだったことを思い出した。あの植木鉢はどうしたんだったか。たしか結婚した時に新居に運んだはずだが。
植木鉢を探して庭に出ると、生け垣の根元にずらりとおもとが生えていた。どうやら妻が植え替えたようだ。驚いて突っ立っている武に気づいた子供が隣にやってきた。
武は庭に下りるとおもとを一株掘りだした。
「このおもと、持って行きなさい。引っ越し先に一番におもとを持って入ると運が開ける」
泥だらけの手を打ち払いながら武は空を仰いだ。そうしていないと涙がこぼれそうだった。
母さん、あなたのおもとは運を開いてくれたよ。
それは母の三回忌の日のことだった。




