暗闇の中の光
暗闇の中の光
目が見えなくなって、琢朗は自分の世界がどれだけちっぽけだったか、思い知らされた。
突然、完全な闇に突き落とされたのが一週間前。朝起きたはずなのに視界は暗く、目覚まし時計の音が部屋中にけたたましく響いていた。手探りで目覚ましを止め体を起こしてベッドの脇のカーテンを開けた。
視界は変わらず真っ暗だった。琢朗はカーテンを何度も引いては開け、開けては引いた。遮光カーテンではないのだ。閉めていても街明かりは入ってくる。
琢朗は自分のまぶたを触った。目隠しになるものがあるわけでもない。まぶたを開けたり閉じたり、閉じたり、開けたり。まぶたは動く。眼球も動く。自分の身に異常が起きているのだと悟った。
携帯電話を手探りで探しだし、一番にかけたのは恋人でも職場でもなく、実家だった。電話口に出たのは母だった。
「お母さん、目が見えなくなった」
「すぐ行くけん、落ちつきな」
たったそれだけの会話で母は新幹線にのり、三時間後には琢朗の部屋にいた。
「眼科やね」
母は近所の眼科を調べ、琢朗の手を引いて部屋を出た。琢朗は母の腕にすがり、恐々と一歩ごとに爪先で地面を探りながら進んだ。母は辛抱強く待ってくれた。
眼科では異常は見つからず、脳神経科、精神科、と渡り歩き「ストレス性一過性失明」という病名をつけられた。数種類の漢方薬と睡眠導入剤を処方され、帰宅した。
目が見えないと何もできなかった。辛うじて、風呂とトイレと洗面は手探りですませたが、他のことは母に頼りきりになった。母は鼻歌を歌いながら掃除をし、洗濯をし、料理をした。琢朗は母に介助されながら食事をした。
あとは何をするでもなくぼんやりしていた。雑誌は読めず、テレビは音だけではまったくつまらなかった。琢朗は洗濯物を畳んでいる母に話しかけた。
「母さん、なんで病気のことを説明もしないうちから来てくれたの?」
「あんた『お母さん』って言ったやろ。こりゃおおごとばい、って飛んできたと」
琢朗が母を「お母さん」と最後に呼んだのは小学校の卒業式だった。
「俺、小学生から成長してないんだな」
琢朗がどんな笑みを浮かべたか、琢朗自身にはさっぱり見えない。母は琢朗の両頬を手のひらで包みこむと、額に額を当ててこう言った。
「こどもはいつまでたっても親にとってはこどもなんよ。甘えんさい。泣きんしゃい。それで気が晴れたら大人の顔に戻りんしゃい」
母の手のひらは暖かくて、琢朗はふわりと抱きしめられた気がした。
三週間、母と暮らして目覚めると、目が、見えていた。
急いで眼科に駆け込むと精神科に行けと追い払われた。それほど慌てていた。
「完治ですね」
精神科の医者は初めて見る笑顔でそう言った。琢朗は生まれたてのような笑顔でうなずいた。
「じゃあ、また来るけん」
「いいよ、来なくて」
「あらま、喉元過ぎたら、こげん言いよるばい」
「そうじゃなくて。今度は限界を超える前に帰るから」
母は寂しそうに、誇らしげに微笑み、新幹線に乗った。
琢朗は小さなころに戻ったような気持ちで新幹線の発車を見送った。




