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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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化ける

化ける

「悪いけど、化粧もしない意識低い人と付き合うつもりないから」

 よき子に背を向けて近藤は早足で去っていく。オフィスのあるフロアへ向かう階段を上る足音を聞きながら、よき子は近藤が高嶺の花だったのだと改めて思い知った。

 翌日、よき子が近藤にふられたことは課内中の誰もが知っていた。近藤に隠すつもりは毛頭なかった。


「澤井さんてキャラもの好きよね」

「あの顔でかわいいもの好きってどうなの」

 喫煙室の前を通りかかるとデスクを並べている田中と古賀の声がした。顔のことを言われるのは慣れていた。けれど、かわいいものを否定されたのは初めてだった。

「澤井さんに使われるキャラがかわいそうになってくるわ」

 よき子は小走りにデスクに戻ると私物をかき集めバッグに詰め込み、上司の席に勢いよく歩みよった。

「体調が悪いです。早退させてください」

 いつもは勤怠にうるさい課長が何も言わず早退を認めたところをみると、よき子は余程ひどい顔色だったのだろう。よき子は溢れそうになる涙をこらえるために駅へ全力失踪した。


 32歳の今まで化粧をしようと思わなかったわけではない。学生時代にはそれなりに練習した。就職活動も素顔であるわけにはいかなかった。たまたまよき子を拾ってくれた会社はカジュアルな服装が認められていたので、よき子はジーンズ、ひっつめ髪、すっぴんで通してきた。

 化粧はよき子の顔を美しくしてはくれなかった。いつも道化師のような顔になった。そんなことなら素顔でいたほうがいい。

 アパートに駆け戻った。よき子はバッグを逆さにふって中身を床にぶちまけた。財布、スマホ、かわいいポーチ、かわいいハンカチ、かわいい文具。それをゴミ袋につっこんでいく。かわいいもので膨れた袋。かわいいかわいい、よき子の宝物たち。もう見る事もない、捨ててしまうのだから。涙がぼろぼろと頬を流れ落ちる。よき子が化粧をしていたらパンダ目になっていたことだろう。すっぴんでよかった、とよき子は自嘲の笑みを浮かべた。


 それから二日、よき子は会社を休んだ。まぶたが腫れ上がってまともな視界を確保できなかった。やっと腫れがひいて会社に向かう。行きづらかったので却って早朝に家を出た。

 それは良案だったようで電車でも、オフィスに向かうエレベータの中でも一人きり、素顔を気にする必要がなかった。

 誰もいないオフィスを悠々と歩いて自分のデスクにたどりつくと、キャラものの膝掛けが椅子の背もたれにかかっていることに気付いた。誰かが来る前に捨ててしまおうと膝掛けをつかんで給湯室へ向かう途中、なにか柔らかいものにつまずいて転んだ。

「いたた……」

 床にあった障害物は人間で、唸り声をあげている。

「佐藤くん!? 大丈夫!?」

 よき子は床に仰向けになっている後輩の佐藤に這いよった。

「どうしたの!? 倒れたの?」

 佐藤はあくびをしながら起き上がった。

「いやあ、寝てただけです」

「寝てたって……床で?」

「見積もりをしあげたのが、ついさっきで。少しでも寝ておこうと思ったんですよ」

 のんびりした佐藤によき子は驚きすぎて声もでない。

「その膝掛け、貸してもらえません?」

 よき子は無言で膝掛けを佐藤に手渡す。

「じゃあ、もう少し寝ます。お休みなさい」

 佐藤は腹に膝掛けを広げてすやすやと眠ってしまった。


「澤井さんと佐藤さんって、付き合ってるんですかあ?」

 タバコ臭い息で田中が、よき子のすぐそばでしゃべる。

「全然、そんなんじゃ……」

「いいじゃない、隠さなくても。お似合いよ」

 古賀が、田中とひそひそ話していたことなど、おくびにも出さず笑顔を作ってみせる。

『イケてない同士、お似合い』

 二人のは表情ははっきりそう言っていた。よき子はその場から離れて物陰に隠れた。

「あ、澤井さん」

 誰もいないと思っていた暗がりから声がして、よき子はびくりと身をすくめた。暗い所から佐藤がぬらりと出てきた。

「膝掛け、どうもありがとう。おかげさまで風邪をひかずにすんで、よかった。洗濯して返しますね」

「いい。あげる」

「え?」

「膝掛け、あげるから使って」

 よき子が言い捨てて立ち去ろうとすると佐藤がよき子の腕を引いた。

「そんな、悪いから」

「いいから。もういらないものだから」

 振り返ると佐藤はこれ以上ないほど嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

「本当にもらっていいの!?」

 よき子は佐藤のテンションの高さに驚きながらも、二度うなずいてみせた。

「やったあ! くもぴょん、大好きなんだぁ!」

 佐藤は両こぶしを口元に当てて甲高い声を出す。

「くもぴょん……、好きなの……」

「はい! かわいいですよね! 丸っこい胴体とか、八つある赤い目とか、短い足とか、それに何より、蜘蛛の巣がととのっていないのが、たまらないの!」

「そう! そうなのよ、あの蜘蛛の巣のいびつさ加減ったら、もう……」

 突然、黙りこんだよき子に佐藤は首をかしげてみせる。よき子はかわいいものと決別しようと思った自分を忘れて騒いだことに驚いて言葉を継ぐこともできない。

「くもぴょん好きな人とお話できて嬉しいなあ」

 佐藤はジャケットの内ポケットからスマホを出していくつもの画像をよき子に見せた。ピンクを基調にした部屋に黒いくもぴょんグッズが所狭しと飾られている。

「よかったら、遊びに来ませんか?」

 よき子はたまらずうなずいた。


「どうぞ、散らかしてますけど」

 佐藤の部屋に上がったよき子は感激でうち震えた。

「イベント限定のくもぴょんペナント! プレゼントキャンペーンのシリアルナンバー入りぬいぐるみ! ガシャぽんフィギュア、全23種コンプリート!?」

「えへへ。苦労したんですよお」

 佐藤はクローゼットを開けて何枚もの服を取り出してみせた。

「くもぴょんTシャツ! くもぴょんストール! ああ! 欲しかったけど高くて諦めたビジューくもぴょんワンピースまで!」

「えへへ」

 佐藤はワンピースを胸に当ててみせ、自慢げに鼻を鳴らした。

「このワンピース、着心地もいいんですよお」

 ワンピースに伸ばしていたよき子の手がぴたりと止まる。

「……着たの?」

「はい! そのために買いましたから!」

 冷静になったよき子は佐藤のクロゼットを、そうっとのぞいてみた。そこにはリボンやフリルやお花や蝶やウサギやキャンディーや、その他もろもろのかわいいものにまみれた女性服が吊るされていた。

「……着るの?」

「はい! 趣味なんです!」

 よき子の足の力が抜け、ふにゃりと座り込んでしまった。


「はい、カモミールティ。落ちつきますよ」

 花柄の品の良いティーカップでハーブティーを出してくれた佐藤はピンクのAラインワンピースを着て頭にはカチューシャをつけていた。

「……佐藤くん、はっきり言っていい?」

「いいですよ。気持ち悪いんでしょ? わかってます、世の中の大部分の人は女装なんて気味悪く……」

「なんで君は化粧をしないの!」

 佐藤はぽかんと口を開けた。

「華奢な肩も白い肌も毛のないスネも女性として十分通るのに、なんで顔だけ男なの!」

「そうは言っても、僕、化粧品なんて持ってないですし」

「ちょっと待ってて」

 よき子はバッグをひっつかむと近所のコンビニに駆けこみ、化粧品一式を買って来た。佐藤の部屋に駆け戻るとカチューシャで佐藤の前髪をすべて上げて額を出し、クレンジングで顔を拭きはじめた。

「さ、澤井さん?」

「黙ってて!」

 眉の形をはさみで整え、BBクリームを顔中に伸ばして、フェイスパウダーで明るいトーンを出し、アイシャドウを濃淡つけて立体感と目の大きさを強調し、頬紅は強めにはたいてワンピースのピンクに負けないように、つけまつげで目力アップ、唇には淡いピンクのグロスで色気を盛った。

 鏡を見つめていた佐藤がつぶやく。

「これが、僕……?」

「どうだ! 美少女になったでしょ!」

 佐藤は感激を抑えきれない様子でふるふると震えている。

「澤井さん!」

「なに?」

「澤井さんも変身しましょう!」

 よき子は、ふいっと視線をそらす。

「だめよ、私なんか。不細工はどれだけ化粧しても不細工なの」

「そんなことないです!」

 佐藤はスマホでユーチューブのとある動画を再生してよき子に見せた。それは一人の女性が化粧をしていく様子を逆再生で見せている映像だった。完璧な美人から少しずつ少しずつ化粧がはがれていく。唇が色を失い、まつげが取れ、顔の色が失せ、滑らかな肌がほくろや皺のある中年女性の顔に変わっていく。最終的に画面の中にいたのは、よき子と大して変わらない容貌のおばさんだった。

「……うそ」

「ほんとですよ、他にも、ほら」

 顔半分だけに化粧を施してビフォー・アフターを明確にして見せる女性、素顔に基礎化粧品の付け方からレクチャーしながら実践して化粧法を見せてくれる女性、中には顔をすっかり猫にしてしまう動画も混ざっていた。

「ね、澤井さん。やってみましょう」

 二人はよき子が買って来た化粧品で、化粧を実践している動画を見ながら大変身するための試行錯誤を始めた。数十分後、そこにいたのは澤井よき子ではなかった。

「この人、だれ?」

 よき子の問いに佐藤が首をひねる。

「よっちゃん、じゃないですか」

「よっちゃん……」

 よき子は鏡の中の自分に見とれた。白い肌、ぱっちりとした目、健康そうな頬と唇、凛々しい眉、それになにより理知的な瞳。これだけはよき子の持ち物で、今まで気付かなかった美点だった。

「ほらほら、澤井さんもワンピース着ましょうよう」

 佐藤から手渡されたのはレースとフリルでケーキのように装飾された真っ白なドレスだった。

「だめよ、こんなかわいい服。おばさんが着るものじゃないわ」

「よっちゃん、よっちゃんはおばさんじゃないよ。かわいい女の子だよ」

 佐藤はきらきらと輝く瞳でよき子を見つめる。よき子はその瞳に吸い込まれるように、佐藤に近づいた。佐藤はよき子の肩にドレスを当ててみる。

「うん! 似合う! ほら、着替えて街に出よう!」

 ドレスを身につけたよき子は本当に生まれ変わったようで、頭からつま先まで初めて出会う美女だった。


 佐藤のパンプスを借りて外に出た。もう夜は更けて真っ暗だったが、よき子には世界が光り輝いて見えた。二人は明るい方、明るい方へと歩いていき、繁華街に行きついた。

「こんばんは」

 後ろから声をかけられ振り返ると、そこに近藤が立っていた。よき子は思わず佐藤の背中に隠れた。

「よかったら、一緒にカラオケでもどうかな。もちろんおごるよ」

「えー、カラオケですかあ? んー、どうしようかなあ、ね、よっちゃん!」

 佐藤が裏声でよき子に話しかける。よき子は消えてなくなりたくて身を縮めて佐藤の陰に隠れようとしたが、佐藤はぐいぐいとよき子の腕を引っ張って前に前にと押し出す。近藤にこんな姿見せたくない! きっと馬鹿にされる!

「二人とも美人だよねえ。もてるでしょ? 俺だったら君たちみたいな美人、放っておかないなあ」

 近藤はしっかりとよき子の目を見ながら囁いた。よき子は驚きに目を見開く。

「ねえ、ちょっとだけ、付き合ってよ」

 鼻にかかるような不快な声をだす近藤に、よき子は不快感を覚えた。

「ちょっとだけ、ね。付き合って」

 よき子は佐藤の腕をぐいっと引っぱると、その頬にキスをした。

「私、この人と付き合ってるから!」

 そう言い捨てて佐藤の手を握り近藤の前から歩き去る。近藤は唖然として二人を見送り、佐藤は真っ赤になってよたよたと、よき子に引かれるままに歩く。

 よき子は胸を張って大股で歩く。道行く男が振り返る。でもそんなことはもうどうでもよかった。 よっちゃんは、ううん、よき子は、かわいいものが大好きだということを胸を張って言うのだ。そうする権利があることを、よき子はやっと思い出した。

「見てろよお!」

「よっちゃん、言葉が汚い!」

「佐藤くん、膝掛けやっぱり返して。洗濯してのりづけしてアイロンもかけて」

 一瞬、絶望にまみれた表情を見せたが、よき子と繋いだ手を見下ろして気を取り直した佐藤は「はい!」と明るく返事をした。

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