夜来鬼
夜来鬼
「小董、遅くまで遊んでたら夜来鬼がくるよ!」
小董は母親にあかんべーしてみせて山に走っていく。
「小董!」
母親の叫びももう聞こえない。小董は風のように走る。
幼い頃から小董は村一番の器量良しと言われて育った。けれど小董本人は綺麗な着物やかんざしには興味なく、ただ縦横に野山を駆け巡った。
小董が彼に出会ったのは15の春の宵だった。なま暖かな風を感じて山の頂上めがけて走っていると後ろから追いかけてくる足音がした。村にも町にも小董についてこられる者はいない。足音はどんどん近づいてくる。 どんなやつが走っているのか、自分に追いつこうとしているのか、と悔しい思いで足を止め振り返った。そこには小さな男の子が走っていて、勢いあまって小董にぶちあたった。小董はたまらず尻餅をつき掌が小石に刺さり血を流した。
掌の傷を押さえようとしたところに男の子が飛び付いてぺろぺろと傷を舐めた。傷は見る間にふさがった。驚いて見ている小董の目の前で男の子の背がぐんと伸びた。一気に二寸も伸びたようだ。
小董は気味悪くなり走って家に帰った。尻餅をついて服を汚したと母親にしこたま叱られた。それから二、三日、小董は家にこもっていた。
けれどすぐにムズムズと外へ出たい気持ちが湧き出して山に向かって走り出した。
頂上に向かっていると、やはり足音がついてくる。あの男の子だろうと気味悪く振り返ることができず走り続けた。足音は追いついてこようとはせず、いつまでもついてきた。
頂上についた小董は思いきって立ち止まった。ついてきていた足音もぴたりと止まった。こわごわ後ろを見ると、やはり昨日の男の子だった。
「おくれ」
男の子は聞き取りにくいしゃがれ声で繰り返した。
「おくれ」
「な、なにを……?」
男の子は小董の掌を指さした。そこには傷があったのだが、すっかりふさがっていた。
男の子はぺろりと舌なめずりをした。真っ赤な、恐ろしいほどに美しい赤の舌が、男の子が小董の血を欲しているのだと語っていた。小董は鋭くとがった小石を拾い、指先に薄く傷を引いた。うっすらと血がにじみ、男の子は飛び付いて血を舐めた。けれど傷は小さくてあっという間にふさがった。男の子はもっと欲しいというように小董を見上げた。
その瞳の黒さ、まるで月のない夜のよう。どこまでも深く小董を飲み込んだ。
小董は小石を強く握った。とがりがプツリと掌に突き刺さる。男の子は飛び付いて血を舐めた。また見る間に傷はふさがって、男の子は三寸も背が伸びた。着ている着物が小さくなって男の子の手足がにゅうと飛び出した。その様がおかしくて小董はクスクスと笑った。男の子は不思議そうに小董を見つめていた。
それから毎日、小董はナイフをもって山に走っていった。男の子に血を与えることが楽しくてしかたなくなった。男の子はあっという間に少年になり、小董の背を追い越し、凛々しい青年になった。小董は家から兄の着物を持ち出して青年に着せた。青年は近隣にないほどの美丈夫になった。小董は自分が育てた青年を満足げに見つめた。
ところが、それからはどれだけ血を与えても青年の背は伸びなくなった。日に日に元気がなくなっていく。小董は気が気でなく青年に病気なのかと尋ねた。
「血が足りないのだ」
青年はきらめくような声で言った。
「幼子の血が欲しい」
それを聞いた小董は村に駆けおりた。夜も深まり月もない。小董は赤子が産まれたばかりの家に駆け込むと赤子をさらい山に駆け戻った。あまりの早さに赤子の両親は赤子が消えたことにも気づかなかった。
小董は青年に赤子の喉を裂いて血を与えた。青年は見る間に赤々と血色を取り戻した。それから毎晩、小董は村から子供をさらっては青年に与えた。青年の美貌はますます磨かれ、この世に類を見なかった。
夜来鬼が子供をさらう。鍵をかけて納戸のすみに大事な大事な子を隠せ。夜来鬼が来たならば囲炉裏の灰をぶちまけろ。夜来鬼は目を焼かれ、大事な大事な子は見えぬ。
村外れでわらべ歌を歌いながら毬をついている女児にひとりの女が歩みよった。髪はざんばら、服は破れて穴だらけ、
目だけはらんらんと輝いて女が正気ではないことを語っていた。
女児はおそれ駆け出したが、女は恐ろしい早さで女児に追いつき、その首をポキリと折った。
夜来鬼が女児を引きずって青年のもとに戻る。青年は一本の木にもたれて動かない。夜来鬼は長い爪で女児の首を裂いて溢れる血を青年の口元に運んだ。青年はぴくりとも動かず血はだらだらと胸から腹へ、足へと垂れる。何回も何十回も繰り返されたその儀式のせいで青年の胸はどす黒い血のか溜まりでおおわれていた。
女は青年の胸に耳を寄せる。青年の心臓は動かない。けれど胸につけたところからドクンドクンと鼓動が聞こえるように思って。
夜来鬼に成り果てた女は今夜もまた山道を駆け降りる。




