イカリネコ
イカリネコ
「いったああ!!!!」
押さえた右手親指の付け根に、ぷっすりと四つの穴が開いた。血は出ない。
「いたいよ、ちょびさん!」
穴の製作者はふいっとヨソを見て、けれどその尾はぱったぱったと左右に振れて、怒りをあらわにしていた。
怒りの理由はいとも明快。口の中に無理やり薬を押し込まれたからだ。押し込まれたその上に、口を押さえられ頭を振られ、無理やり薬を飲まされたからだ。
「だって、そうしないと飲まないじゃないかあ」
情けない声で泣き言をもらす私の脇をすり抜け、ちょびさんは猫ドアから外へ出て行った。
ちょびさんは猫である。名前は前述の通り。
白黒まだらの毛皮に、口の上にチョビっとチョビひげがある。だから名前はちょび。御年16歳、そろそろ彼女もご長寿の範囲に入る。
けれど小柄なその体はまだまだしなやかさを失わず、やんちゃし放題だ。外へ出れば、ライバルのタビーと丁々発止とケンカして、そのたびに傷をこさえて帰って来る。そのたびに動物病院に連れて行かれてきらいな薬を飲まされるちょびさんが、少し不憫ではあるけれど、けれど怪我した家族を放っておけるほど、私の肝はすわっていない。
手に開いた小さな穴を消毒しながら私はため息をつく。きっとちょびさんは今日帰ってこない。冷え込む夜に、布団に入ってきてくれる小さなぬくもりが無いと思うと、今から寒くてしかたない気持ちになる。
ふと考えることがある。ちょびさんが死んでしまったら、私はどうするんだろうか、と。
朝起きたらちょびさんの器に水とカリカリのごはんを入れて、トイレの砂を代えて、ネコジャラシでちょっと遊んで。帰ってきたら玄関に迎えに来てくれたちょびさんを抱き上げて並んで一緒に夕飯を食べて。そうして同じ布団で眠る。
私の生活のほとんどに、彼女は寄り添ってくれる。まるで私を支える柱のように。小さな小さなその体で、私のすべてを支えてくれる。
冷たい布団に横たわり、ぽっかりと空いたその場所に今は無いぬくもりを思う。
その時が来たら、彼女がいってしまったら、私は毎夜このように眠るのだろう。考えていたら、体の中を風がすうっと吹きぬけるような底冷えを感じた。布団を頭の上まですっぽりかぶる。そうしても体はちっとも暖まらない。体温はすべてその場所に吸い取られて行くような、不安な落とし穴をのぞいたような。
血の気が引いて、気が遠くなりかけたとき、にゃあん、と高い声がした。私はがばっと起き上がると、猫ドアのところへ走って行く。彼女はドアの脇にちょこんと腰かけて顔を洗っていたが、私を認めると近づいてきて、私に体をすりすりとすりつけた。
「……おかえり、ちょびさん」
にゃあん、という返事と鈴の音。
あと何回この時を迎えられるだろう。私はちょびさんを抱き上げた。その体は軽く小さく、けれどしっかりと私の胸を暖めてくれる。
残る回数を数えるのはやめよう。今、彼女はここにいる。夜の闇からここに帰ってきてくれる。それでいいではないか。
ちょびさんの額を軽く掻く。
「あ!! また怪我できてる!」
私の指が傷に触れると、彼女は身をひるがえし飛び降り一目散に猫ドアから外へ走り出る。
「こらあ! まちなさい!」
猫ドアから覗いた庭に、しかし彼女の姿はすでになかった。
私は一つため息をつくと、動物病院の診察券とキャリーバッグを準備して、暖まった体を布団に伸べた。