残業ラプソディー
残業ラプソディー
残業するやつほど仕事ができない。孝の会社の影の社訓だ。定時退勤が奨励されるのは当たり前のことだと孝だって思う。残業代を払わなければならないし、電気だってただじゃない。けれど仕事は煙のように消えてはくれない。今夜も孝はガランとしたオフィスに一人残っていた。
明日の会議の資料を作り終え、大きなため息をついた時には二十三時を回っていた。今月の残業可能時間は残り四時間をきっている。法定労働時間が決まっているのが幸なのか不幸なのか孝にはわからない。ただ、この仕事に人生を捧げるつもりがないことだけは確かだ。
多数の企業が入っているオフィスビルの十五階に孝の会社はある。火事になったら逃げられないな、といつも思う。いっそ炎にまかれて消えてしまえたら楽になるな、と同時に思う。
オフィスを出ると、隣の別会社の社員もちょうど出てきたところだった。軽く会釈してエレベータホールで並んでエレベータを待つ。横目で隣の社員を観察する。頭頂部がはげあがった小太りの男性だ。もう定年も近いだろう。もしかしたら定年を過ぎた嘱託社員でもおかしくない年齢に見える。こんな時間まで居残るのは珍しい年齢層に思えた。
この男も無駄な残業代泥棒と白い目で見られているのだろうか。長年そうやって働き続けたのか。いや、彼くらいの年齢ならばバブルを知っているだろう。働かなくても金が回っていた時代を。うらやましさを通り越して怨めしくなった。しかしバブルでもうけた蓄えを使いきったからこその残業だろう。富を知った上での貧乏と、貧乏しか知らない貧乏なら、落差を見たぶん、バブル世代の方が不幸だろう。孝は溜飲が下がるのを感じた。
エレベータのドアが開き、バブル男は孝に先を譲った。その後にさっと入り、ボタンの前に率先して立った。一階につくと開くボタンを押し、孝を先に歩かせる。孝は腹の中で男をせせら笑った。きっと骨の髄まで平社員こんじょうが染み付いているんだ。上司の前では地面につくほど頭を下げるに違いない。
ビルの正面エントランスはすでに閉められている。裏口に回ると警備室で鼻をほじっていた警備員がその指で裏口の扉を開けた。孝がそのドアノブに触るのをためらっていると、バブル男がさっとドアを開け、孝を通してくれた。孝はやや胸をそらしぎみに外に出た。
通用口には黒塗りの大型のセダンが停まっており、帽子に白手袋の運転手が誰かを待っていた。孝が横目に見て通りすぎようとしたとき、運転手が「お疲れさまです、社長」と言った。振り返るとバブル男がにこやかに運転手に手をあげ答えている。男は孝に「お疲れさまでした」と丁寧に頭を下げて車に乗り込んだ。
もう残業はやめよう。孝は何もかもをあきらめた気分で走っていく車を見送った。




