胸が腐る
胸が腐る
胸の谷間にオデキができた。日に日に大きくなっていく。大きくなっていくと共に悪臭を放ち出した。歯槽膿漏の猫のよだれの臭いがする。
最初にオデキに気づいたときは臭いなどはなかった。ただぷくりと脂肪の塊みたいに小さなポッチが出来ただけだった。しばらく、その小さなオデキのことを忘れていた。
「お前さ、いいかげんにしてくれん?」
眞壁くんが眉間にシワを寄せてあたしを睨む。ああ、眞壁くんがあたしを見てくれている。
「どこに行っても待ち伏せされてる方の身になれ……って言ってもしょうがないか、ストーカーに道理なんて通じないな。とにかく近づくな。これ以上何かしたら警察に行くからな」
眞壁くんが話してくれた。今日は一分も話してくれた。あたしは眞壁くんの残り香を嗅ごうと鼻を動かした。
その時に臭ったのだ。歯槽膿漏の猫のよだれの臭いが。どこからそんな臭いがするのかきょろきょろ首を動かして、どうやら自分の胸のあたりからだとわかった。服をつまんで胸元をのぞくとオデキが大きくなっていた。直径三センチほどの肌色のオデキがぷくりと膨らんでいた。指でつついてみると固い山の表面に、ぶよぶよしたものが薄く覆いかぶさっているような感触だった。いやな臭いだが、感触は悪くなかった。家に帰って服を脱いで鏡に映してみても、ただ肌色なだけで触っても痛みもないので、様子を見ることにした。
「警察に行くって言ってるだろ」
そう言いながら眞壁くんは今日もあたしと話してくれる。
「愛菜に無言電話かけるのをやめろ」
そう言われても、眞壁くんの電話を独占するために仕方ないのだ。あの女に電話できないようにするためには。
「気味悪い手紙も証拠にするためにとってある」
あたしの手紙を眞壁くんが持っていてくれる。読んでくれた。
「これから、警察に行く」
眞壁くんがあたしに背中を向けて歩いていく。その背中についていこうとして、しかし足を止めた。オデキが臭った。この悪臭を眞壁くんに嗅がせるわけにはいかない。こんなに臭かったら嫌われてしまう。
急いで部屋に戻って服を脱ぐ。オデキは手のひらよりも大きくなっていた。臭いはいっそうひどい。押してみると固い芯が胸の奥深くまで伸びているようだ。
庖丁を握って風呂場に飛び込んだ。鏡に映ったオデキの周囲にぐるりと切り込みを入れる。うっすらと血がにじみ出す。切れ込みから刃を射し込んで芯をえぐる。芯は固くて庖丁では切ることができない。さらに深く刃を射し込みオデキの根っこを探る。ぐいぐいと庖丁を突き立てていると血が噴き出した。手が滑って切りにくい。でも急がなきゃ。早くオデキを取ってしまって眞壁くんのところに行かなくちゃ。眞壁くんが待ってる。
手のひらほどのオデキのぐるりを切り開き、庖丁の刃が半分ほど胸の中に切れ込んだところで、オデキの根っこを見つけた。あたしは両手で血まみれのオデキを握ると力一杯引き抜いた。
「まいったよ、事情聴取が三日も続いてさ。けどあの女が死んだ時間に、ちょうど警察署にいたからさ、助かったよ。そうでなかったら、あやうく殺人犯にされるところだった。あの女、すごい死に方だったんだって?自分で自分の心臓をえぐりだしたって。なんでそんなことしたんだろうな。まあ、ストーカーの頭の中なんてわかるわけないか。あれ?どうした、愛菜。なんだよ、近づかないでって。恥ずかしがらなくていいだろ。無言電話?なんだ、それならあの女の仕業だよ、まさか、俺じゃないよ。なあ、逃げるなよ。俺はお前を愛してるんだ、……なあ、臭わないか。何がって、歯槽膿漏の猫のよだれの臭いが。……俺?ああ、ほんとだ、なんかでかいオデキが出来てる。愛菜、ちょっと待っててくれよ。すぐにこんなものえぐりだすからな」
駆け去る眞壁の背中を愛菜は薄ら笑いを浮かべて見ている。
「邪魔者は始末できたわ。待っててね、代田くん、すぐいくわ」
足取り軽く歩き出した愛菜の胸元から悪臭が……




