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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
596/888

無名の人

無名の人

「誰でも一生に一度は小説を書ける」と言ったのは誰だったかどういう言い回しだったか。インターネットに問えば瞬きの間に答えは出る。けれど佳代にはパソコンもスマホもない。ボタンを押すとカチカチと小うるさい音がする古い携帯電話からネットに繋がろうと思っても大抵のサイトはすでにガラケーには対応しておらず処理しきれない莫大なデータの隅っこを狭い画面の中に見つけるだけだ。世の中の急流のように過ぎ行く流れに乗り遅れた小船は岸に打ち上げられ二進も三進もいかない。

 流れに乗れない佳代の人生を小説にするならばいつも壁に突き当たり逡巡し立ち止まる女の繰りごとの連続になるだろう。佳代はそんな女だ。流れに翻弄されどこにも進めない小船。それが佳代のすべてだ。けれどそれを佳代自身は気付いていない。今日も働きに出て適当に仕事をし適当に失敗をし適当に評価される。そんな適当な日々。佳代は一生を適当にやり過ごしていくだけだ。適当に恋愛をし適当に結婚をし適当に子育てをし適当に老いる。佳代は適当に読み捨てられ適当に朽ちていく。流れないまま小船は朽ちていく。

「誰でも一生に一度は小説を書ける」といったのは誰でどんな言い回しだったか佳代は知らない。佳代は小説を一生書かない。自分に書ける小説などありはしないと適当な日々をやり過ごす。小船のさびしい風情がどれだけ心揺さぶるものかも知らぬまま。


「岡崎さん」

 振り返るとお局様が仁王立ちして佳代を睨みつけていた。

「あなた給湯室の電気消し忘れてたわよ」

「あ、ごめんなさい、すぐ消して……」

「もう消したわよ!今度から気をつけてよね」

 お局様は足音高く歩み去る。そんな堂々とした態度に佳代は半ば羨望を感じ、半ば怖れを感じる。あんなふうに感情を外に出して見せることができたら、人生はどれだけ生きやすくなるだろう。だけど佳代は言葉を飲み、与えられた仕事に戻っていく。女子社員にお茶くみ当番がある旧態依然としたこの会社は佳代にとっては素晴らしく居心地がいい。お茶を淹れ、コピーを取り、にっこりしていれば給料がもらえる。このぬるま湯から出て寒風のふきすさぶ世の中でやっていける気がしない。何者にもならずに平穏に一生を過ごしたい。普通に結婚をして出来たら専業主婦になって子どもを育てて病院のベッドの上で安らかに息を引き取る。それだけが佳代の望むものだった。


「誰でも一生に一度は小説を書ける」といったのは誰でどんな言い回しだったか佳代は知らない。


「岡崎さん」

 振り返ると同期の早田君が立っていた。

「先日の返事、聞かせてくれるかな」

「あの……よろこんで……」

 恥ずかしそうにうつむいて小さな声で承諾すると早田は湧きあがる笑顔を隠しもせず佳代の手を取った。佳代は心の中で上手く回った駆け引きを誇り、望む通りの人生の幕開けを称えた。


「誰でも一生に一度は……」

 佳代はぽつりと呟く。子どもが巣立ち夫を亡くし残ったものは小さな家と少しのローン。年金とパートで生活しながら思うのは流れなかった小船のこと。この小さな船を大事に守ってきた自分のこと。

 ふと振り返れば急流が見え佳代の知らない大型の船が波を蹴たてて流れていくのだ。あっという間に見えなくなるその船は佳代には知りえない小説を紡ぐのだろうと佳代は諦め顔で自分の小船を岸に押し上げた。


「岡崎さん」

 どこか遠くで呼ぶ声がする。

「岡崎さん、聞こえますか」

 聞こえているようないないような不思議な感じがする。

「母さん、しっかりして」

 息子の声が聞こえる気がする。目の前には一層の小船。今度こそ川に乗りだそう。向こう岸に渡ろう。佳代は力いっぱい小船を押す。

「母さん」

 息子の声が遠くなる。この岸から小船は離れ彼の岸へ向かう。波は荒く小船は揺れる。佳代は懸命に船を漕ぐ。今こそ佳代は小説のヒロインだった。一生に一度たった一つの冒険を小船と共に行くのだった。

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