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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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目覚めの時

目覚めの時

 目が覚めたとき、侑真はぼんやりと、寝過ごしたと思った。目覚まし時計はならなかったが、外から射し込む光が、昼のものに感じられたからかもしれない。まっしろな天井をぼうっと見上げて、起き上がらなければと思うが、体は動いてくれなかった。動かそうという意思も薄く、その意識が手足まで届いていないようだった。

 ぶううん、という音がしてベッドが波打った。足元のマットが持ち上がり、左右にうねる。足をマッサージされているようで気持ちがよかった。ぶううん、という音は続き、うねりは腰、肩、と上ってきて全身をほぐされた。

 ベッドのうねりがおさまって少したったころ、水色の制服を来た男性の看護師がやってきた。

「川崎さん?川崎さん、目が覚めたんですか!」

 侑真が視線を動かして看護師の顔を見ると、看護師はあわてて走り去っていった。視線だけを這わせ、ベッドまわりの仕切りのカーテンやピッピッと鳴っている脈拍計を見て、侑真は病院にいることを知った。

 それからの時間は荒波に揉まれるようだった。看護師が医師を連れて戻ってきて医師が侑真の目を覗きこんだり、枕元で意識はあるか?痛みはあるか?体は動くか?様々なことを侑真にたずね、侑真はちょっとだけ動く頭を動かしてうなずいたり、首をふったりした。

 最後に両親がやってきて泣きながら侑真にすがりついた。

「よかった、目を覚ましてくれて、よかった……」

 涙を流す母はとても老いて見えた。


 事故にあったのだと知ったのはそれから三日後だった。それまでは様々な検査を受け、疲れてマッサージをしてくれるベッドに伏して眠り込むということを繰り返した。


 角を曲がった時に、出会い頭だったらしい。ダンプに撥ね飛ばされ、頭を強くうち意識が戻らなかったらしい。

「川崎さん、あなたは今、二十五才です」

 言われた意味がわからなかった。侑真は高校二年、十七才だ。けれど、動かない体は長い年月、寝たきりだったことを示していた。侑真はただ淡々と日々を眺めていた。


 妹がやってきたのは侑真が目覚めてから一週間が過ぎた頃。赤ん坊を抱いていた。

「お兄ちゃん……」

 妹は笑顔になり、ほろほろと泣いた。その涙に赤ん坊が手を伸ばし、妹は赤ん坊を侑真の枕元に近づけた。

「お兄ちゃんの姪だよ」

 そう言って笑う妹は、たしかに二十代の女性で、侑真は自分の時が知らぬ間に動いていたことを自覚した。

 八年間。侑真が知らない時間に世の中は劇的に変わったかと思えば、それほどでもなかった。車が空を飛んだり、ロボットが道を歩いていたりすることもない。ただ、侑真のひげが十七才の時とは比べるべくもなく黒々と深かった。自力でひげを剃ったとき、侑真は自分が自分でないように思った。

 退院までは夢の中にいるようだった。動けるようになるためのリハビリも他人事のようだった。毎日やってくる母の涙もどこか遠い。眠っていた八年間の重みにくらべると、現実はもろく今にも崩れそうだった。

 病院から一歩出て見上げた空は白々としていて他人行儀だった。よたよたと不安定にしか歩けない侑真には世界は明るすぎ、色彩は強すぎた。

「おめでとうございます」

 声をかけてきたのは見知らぬ中年の男性だった。

「元気になられてよかった」

 その人はくしゃりと顔を歪めてしゃくりあげながら話す。

「自分の不注意なんです。あなたがなくした八年間、自分はどうつぐなえばいいか……」

 侑真をはねたダンプの運転手だと母が小声で侑真に伝えた。侑真は男性の顔をまじまじと見つめたが、なんの感慨もわかない。ただ、泣きじゃくるその男が憐れだった。


 侑真は二十五才の自分を鏡の中に見るたびダンプの男を思い出す。それは恨みでも憐れみでもない。憧憬にも似た愛着だった。あの八年間、なくした八年間を思い出させるよすがだった。侑真にとって八年間はただ消え去ったものではなかった。そこには長い長い命の階段を上ってきた実感が眠っていた。

 何年たっても侑真は自分がまだ病院のベッドの上で夢を見ているような気がする。けれど時間だけは侑真を現実に、目覚めの朝に存在させる。


 目が覚めたとき、侑真はぼんやりと、寝過ごしたと思った。目覚まし時計はならなかったが、外から射し込む光が、朝の空気を感じさせた。侑真は今日も生きている。

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