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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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不自由なき不自由

不自由なき不自由

 朝起きるとテーブルの上にラップにくるまれた食パンが二枚置いてあった。なぜ食パンを包むのか?と持ち上げてよく見たら、サンドイッチだった。茶色い耳もついたまま、一枚の食パンを二枚に切って間に卵フィリングが挟んである薄っぺらいサンドイッチ。なんだかアメリカの古い映画で見たランチみたいだな、とおかしくなった。


 千早が熱でダウンして四日目。スープが冷めない距離に住む母が食事の差し入れに来てくれている。親の過干渉に悩んで家を出た千早にとってそれは恐怖で、また自分は一人では何もできないという無力感に襲われなければいけないのかと震えた。しかし着替える力もない今、食事を準備してもらえるのは命を繋ぐ大事な綱だった。すがるしかない。


 千早は両親が四十台になってからできた一人っ子で厳しくしつけられた半面、甘やかされた。礼儀作法は叩きこまれたが、欲しいものは言う前に与えられたし、お小遣いも使いきれないくらいにもらった。そうやって育ったせいか、千早は渇望というものをしらない。心を焦がすような思いをしたことがない。勉強も母が付きっきりで面倒を見ていたため、学校の授業で困ったことがない。中学からは親が決めたエスカレーター式の学校に入ったため受験もしらない。運動はそこそこできる、目だった趣味は無い。大学二年の夏、就職活動のための自己分析を初めて、ふと気付いた。千早には「私」がなかった。

「千早は本当にいい子ねえ。お父さんとお母さんの言うことをよく聞いて」

「千早、お父さんとお母さんは、お前に幸せになってもらうためなら何だってするからな」

 幼いころからくり返しくり返し言われ続けた言葉が、なぜか頭の中をぐるぐる回って離れなかった。幸せに、幸せにと、くり返しくり返し言われ続けた言葉が。失敗しないように、苦しい思いをしないように、両親が草を抜き、石ころをどかし、なだらかにしてくれた道を歩き続けてきた千早は、幸せにならなければならなかった。そうしないといい子でなくなる。いい子でないならお父さんもお母さんも私を必要としなくなるだろう。

 もちろんそれがどんなにバカげた考えか、大人になっていた千早の頭でははっきりわかっている。けれど千早の中の子供の心が怖れて震え、千早は家を出た。けれどいつまでたっても千早はいい子のままで、どこへ行けば自由になれるのかちっともわからない。


 千早は熱で潤んだ目でサンドイッチを見つめる。サンドイッチは千早の大好物だ。小さなころから数数え切れぬほど母は千早のためにサンドイッチを作ってくれた。パンを焼くところから始まり、マヨネーズも手作りで野菜たっぷり、白い三角形の、定規で計ったように狂いのないサンドイッチたち。きれいなランチボックスに詰められてお行儀よく千早に食べられるのを待っていた。千早はそれをお行儀よく一口ずつきれいに食べた。

 しかし、今日のサンドイッチの変わりようはどうだろう。耳はついたまま、具はほんの申し訳程度、ラップはよれよれ、とても母が作ったものとは思えなかった。いつも千早に完璧なものを与えようとしていた母のものとは、とても。千早は、くしゃくしゃでどこから剥がしたらいいのかわからないラップの包みを毟るように開け、サンドイッチに噛みついた。パンの粉が口の端からほろほろと零れ、パジャマに白い点がついた。一枚まるごとの食パンをかじった事など生まれて初めてだった。いつもサンドイッチは三角形だったし、トーストは二切れに切り分けられていた。卵のフィリングもなんだか塩気がなくて、今食べているものがサンドイッチだとはとても思えなかった。新鮮な味を千早は一生懸命食べた。熱で腫れた喉の痛みも忘れて、一生懸命食べた。


 千早の熱は二日で下がり、母のサンドイッチはそれ以来食べていない。後で聞いたことだが、千早が寝込んだころ、母はパートを始めたばかりで、慣れぬ仕事の合間を縫って千早の面倒を見ていてくれたという。

 そうか、と千早の肩から力が抜けた。

 そうか、私はもう母の全てではないんだな。そう思うとほっとすると同時に泣けてきた。


 自己分析は驚くほど簡単に終わった。千早はどこからどう見ても「優等生」だった。でも、それでいい。千早は自分で作った茶色い耳がついたままのサンドイッチをかじりながら、近況を知らせるメールを両親に送った。

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