幸せお風呂
「ろく!しち!はち!く!じゅ!おわり!」
「あ、こら、紅!待ちなさい!」
母の言葉など耳に入らなかったふりで紅は風呂から飛び出していった。ろくに体も拭かずリビングへ走っていく。
「もう、また水浸しにして」
幸恵は紅がいなくなって広くなった浴槽で手足を伸ばす。子どもに入浴の楽しさを知ってもらいたいのも山々だが、自分がゆっくりしたいのも本音だ。幸恵は元来、一時間近く風呂に入る方だった。それが、子どもを産んでからは忙しくて体を濡らす程度にしか浴槽に入れない。亭主がのんびり湯に浸かって鼻歌なんぞ歌っていると、とんかつを一切れ減らしてやったりするくらい腹が立つ。
今日は紅のおかげで久々にゆっくりできた。
紅はなぜか風呂が嫌いだ。幸恵も亭主も子どもの頃から風呂好きだったので、その気持ちがわからない。わからないから改善のしようがなく、紅が数を数えられるようになってからは、十数えるまで湯に浸かる約束をさせた。確かに、紅は十数える。ただし、超早口でだ。
幸恵は湯の中に顎まで浸かり至福を味わう。このまま湯の中に溶けて消えてしまえたらどんなに幸せか……。
「ママー!マーマー!」
幸福感に浸りきっていた幸恵を紅の声が現実に引き戻す。
「どうしたのー」
「パジャマのぼたんがはまらないー」
幸恵は湯の中に鼻まで浸かりぶくぶくと泡をあげる。幸せタイムは終わり。現実に出て戦わねば。ざばりと音をたてて勢いをつけ空気中に体をさらす。地上は重い。
髪を適当に拭いて廊下に出ると、紅が撒き散らした水滴が点々とリビングまで続いている。
「ああ、もう!」
洗面所から雑巾を持ってきて床を拭きながらリビングに向かう。
「ママー、ぼたんできた!」
紅が真っ赤なほっぺたで抱きついてきた。ふわりと石鹸の香りがする。幸恵は紅を抱きしめる。
そうだ、幸せはここにあったんだ。幸恵は紅の頭を撫でて頬擦りした。紅はくすぐったがって身をよじり、明るい笑い声をあげた。




