一時間三十分
一時間三十分
通勤に片道45分かかる。バスに揺られてゆるゆる行く。始発から終点まで行き、始発から終点まで帰るので、ずっと座っていられる。
ラクである。
45分という時間は長いようで短い。短いようで長い。何かまとまったことをするには時間が足りない。
たとえば、けれど掌編小説を書くには長い。読書するには短い。
たとえば、作詞をするには短い。けれどアイディア出しはできる。
時間は伸縮自在だ。寝ていればあっという間で、集中していたらあっという間で、退屈していたら長く、子供のころは一日が長かった。
子供の時間は長い。大人の時間は短い。これは人生の長さにおける現在のパーセンテージに起因する。
八歳の子供は寿命の八十年のうち生きてきた時間が占める割合は一割だ。それが人生のすべて。
八十歳の人が生きてきた時間は十割、百パーセント。それが人生のすべて。
百パーセントにおける一の価値と、十パーセントにおける一の価値はちがう。
百万円もっていて一万円を浪費するのと、十万円をもっていて一万円を浪費するのでは意味が変わってくる。
十万円しかもたないものにとっての一万円。それが子供にとっての一日だ。
私の片道45分は通勤時間としては長いほうかもしれない。しかし私の一生からするとまだまだ充分に長い。
カタカタとバスに揺られて、長い時間を楽しんで、私は明日も仕事に向かう。掌編小説など書きながら、楽しんで。




