春夜行
春夜行
ふと目覚めると車窓は真っ暗であった。いつの間に眠っていたものか車内はがらんと無人だった。開いた窓から冷たい夜気と梅の香りが流れ込んでいる。目を凝らすと遠くに白梅が並木になっているのが見えた。あんなに遠くから匂ってくるのかと少しばかり驚いた。
そのおかげで頭がはっきりとして、電車を乗り過ごしたことに気がついた。まあ、いい。急ぐ旅でなし、揺られて行こうと姿勢を落とし、腰を深く沈めた。
カタンカタンと続く線路の音が耳に心地よく目をつぶればまた眠ってしまいそうだった。天井の蛍光灯がチラチラした青い影を床に落とす。
ふと、網棚に乗せたトランクが消えていることに気づいた。さて、どこへ行ったものか。はて、何が入っていたろうか。思い出せない。
まあいい。なくなって困るものなど持ってはいないのだから。
カタンカタン、カタンカタンと電車は走る。
外は本当に真っ黒で、窓硝子に自分の姿が映っている。どこか見たことがあるような、ないような、不確かな感触に首をかしげる。さて、こんな顔だったろうか、自分は。わからない。何もかも忘れてしまったらしい。まあ、いい。忘れてしまうくらいなら覚えていても仕方ない。
ぶううん、という羽音に上を見ると、小さな蜂が蛍光灯に体をぶつけていた。何度も何度も。そのたびに、かそけきカツンカツンという音がする。ああ、生きているのだな。
窓に目を転じると、見慣れぬ自分がそこにいて音もたてずに座っていた。
カタンカタン、カタンカタンと電車は行く。どこまでも、春を越えて。




