ワインの海
ワインの海
「……買っちゃった」
菜緒の目の前に、届いたばかりの巨大な木箱が二つ。ひとつは赤ワイン、ひとつは白ワイン、どちらも十二本。ワインは好きだ。二十四本の瓶を目の前にすると、壮観というより圧巻だ。こんな量の酒を家にお迎えするなんて初めてのことだった。
もちろん、菜緒はワインが呑める。どちらかといえば酒には強い方だし、好きな方だ。けれどもあまりに量が多いと辟易するものだと初めて知った。
良い声だったのだ。売り込みの電話が入ったのだ。以前買ったことがある洋菓子の通販会社が酒の販売を始めたという。
菜緒は声フェチだった。電話の声は菜緒のハートのど真ん中を射抜いた。
「柏木さまでいらっしゃいますか?」
そう尋ねられた時、菜緒は柏木という名字に生まれたことを神に感謝したほどだ。この声をいつまでも聞き続けていたい。そんな夢のような時間はあっという間に過ぎ去り、菜緒の手元には十万を超える請求書と二十四本のワインが残った。
木箱は縦1メートル、横40センチ、高さはワインの瓶より少し高いくらい。大きい。木でできているぶん、段ボールなどとは存在感がけた違いだ。おそるおそる蓋を開ける。念入りに打ち付けられた釘を抜く。木箱が壊れそうなバリバリという音をたてて蓋を開けた。
六本の瓶が二列に並ぶ。一本手にとってしげしげと眺めた。
スペイン語で書かれたラベルは、もちろん読めない。良い声の販売員が言うにはスペインではもっとも有名なシャトーで作られた古式ゆかしいワインだという。安くはない。安くないワインは菜緒の安月給にはかなり厳しい。
「……返品しようかな」
その時、電話がなった。番号は件の通販会社からだ。菜緒はそっと受話器をとる。
「柏木さまでいらっしゃいますか?」
ああ、その甘美な調べは上質なワインのように私を酔わせる。菜緒は無駄に詩人になった頭脳で声に聞き入った。
「先日はご注文いただきありがとうございます。商品は無事、お手元に届きましたでしょうか」
菜緒は耳から全身へと幸せで満たされていくのを感じた。
「柏木さま?」
「は、はい!聞いてます!」
「ありがとうございます。商品はご満足いただけましたか?」
「もう、大満足です!」
「ありがとうございます。よろしければ、他の銘柄のご紹介もさせていただけますか?」
「望むところです!」
その後、木箱は8つに増えた。




