GO to 楽園
Go to 楽園
右足を骨折した卓也は一か月入院することになった。
「まあ、長期旅行にでも来たつもりで、ゆっくりしてください。骨が使えないから、これがほんとの骨休め」
主治医は面白くも無い冗談で一人、がはははと笑った。
卓也は勤務先では係長を任されていて、現在、大きなプロジェクトに関わっていた。ゆっくり寝ている暇などない。なんとか通院ですませたいと申し出たが「骨がまっすぐにつかなくて歩けなくなってもいいんですか?」とおどされ渋々ベッドに張り付けられることになった。
見舞いに来た部下に「仕事のことはまかせてくださいっす!」と明るく言われ返って不安になり、部下に強い口調で指示を飛ばした。そうしながらも自分は寝ているしか出来ることはない。卓也は枕を顔の上に乗せて平静を保とうと瞑想を始めた。
「検温ですよ」
声をかけられた時、卓也はぐっすりと寝入ってしまっていて真っ暗な枕の下で、自分がどこにいるのかわからなかった。パニックになりそうになった時、そっと枕が外された。
卓也の息が一瞬止まった。目の前に天使がいた。
「だいじょうぶですか?」
問われても卓也は何の事だかもわからず、呆然と天使を見上げつづけた。
「痛むんですか? 喋れないですか?」
「しゃ、喋れます」
天使は白衣を着ていた。手に体温計を持っていた。看護師だ、とやっと卓也は気づいた。天使は卓也に体温計を手渡すと他の患者の元に行ってしまった。卓也はぼんやりと天使の後ろ姿を目で追う。こんなに優しげで美しい人に会ったことがなかった。栗色の髪をアップにまとめて、まっ白なうなじが見えている。やわらかそうで、きっと触れるとすべすべと肌に優しいのだろう。彼女に触れてみたい。彼女を一人占めしたい。その欲求は抗いがたいものであり、卓也は体温計を渡す時に手を伸ばしてみた。
「あら、熱がありますね」
天使はそういうと、卓也の手を取り脈をみた。卓也の鼓動は最高潮のビートを刻む。
「脈も早いですねえ。先生を呼んで来ますから待っていてくださいね」
早足で歩き去る彼女の背に確かに羽根が生えているのを卓也は見た。ここは天国か。俺はもう死んだのか。そんな馬鹿な事を考えたが足は痛み、熱のせいで体はだるい。しばらく待つと医師がやってきたが天使の姿は見えず、卓也はがっかりした、という顔を医師に見せてしまった。その表情を見た医師はニヤリと笑う。
「あなたも早見さんにやられましたか」
「早見さん? 彼女は早見さんっていうんですか」
「早見百合さんっていう名前ですよ。ちなみに独身、彼氏なしです」
医師はプライバシーなどどこ吹く風、と天使について様々な情報を卓也に漏らした。卓也はどんな情報も聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けた。
「でもどんなに頑張っても彼女は振り向いてくれないですよ」
「な、なんでですか?」
「彼女は女性が好きな人なんですよ」
卓也はぼんやりと天使が病に伏せっている女性の手を取り立ち上がらせるイメージを抱いた。そして天使はその女性を抱きしめる。イイ。すごくイイ。
「あ、あなたもイケる口ですか。実は私もなんですよ~。いいですよね、ユリ」
卓也はコクコクと何度も頷いた。
それ以来、卓也は天使に触れるなどということを考えもせず、天使の幸せをただ祈った。一か月、卓也の精神は旅行にいくよりもずっと慰められ、癒された。
退院の日、ナースステーションへ挨拶に行った卓也は天使に話しかけた。
「がんばってくださいね。応援してます」
天使はきょとんとしたが、すぐに吹きだした。
「もしかして先生から、私がレズだって言われて騙されましたね? 残念ですけど、私、結婚していて子供もいるんですよ」
卓也はぽかんと口を開けた。
「どうしてそんな嘘を……」
「それはね」
後ろから医師の声がして卓也は振り返った。医師は至極、真面目な顔で深い慈愛のこもった目で卓也を見つめた。
「入院生活の間、しあわせになってもらうためさ。君は早見くんが他の男性患者に接しても嫉妬しなくて済んだだろう」
卓也は深く納得し、医師に丁寧に礼を言った。医師は病院の玄関まで卓也を見送ってくれた。挨拶を終え去ろうとする卓也の背中に、再び医師が声をかけた。
「実はね、君の反応が面白かったから騙しただけだから」
卓也が振り返ると、医師は脱兎のごとく逃げていくところだった。あっけにとられた卓也は怒るよりも笑いがこみ上げて来て、頬のゆるみを他人に見られないようにぐっと唇を引き締めた。この入院は本当に天国旅行のようだったなあ、禁欲的な愛を知れて。卓也は少し懐が広がった気がして足取り軽く帰っていった。




