万国菓子舗 お気に召すまま ~あの日のおやつ~
万国菓子舗 お気に召すまま ~あの日のおやつ~
「えー。またドーナツぅ?」
小学校から帰ってきた久美が口をとがらせて言うと、ママは目を吊り上げて久美を見下ろした。
「そんなこと言う子にはおやつは上げません」
そう言うとママは揚げたてのドーナツを取り上げ、むしゃむしゃと三つ全部食べてしまった。久美は(しまった)と思ったけれど、食べ物の事で一度怒ったママは、謝ろうと泣いてみせようと、ゆるしてはくれない。おやつをくれないと言ったらくれない。ママはドーナツが乗っていた皿を洗ってしまうと、洗濯物を取り込みにベランダへ出て行ってしまった。久美は、すきっぱらを抱えて自分の部屋に戻った。貯金箱を振ってみると、結構な小銭が入っている事がわかった。三年生の久美は毎月のお小遣い300円のうち、50円を貯金している。そしていつか貯めたお金で大好きなお菓子屋さんに一人でお菓子を買いに行くのだ。貯金箱を開けてみると、1200円も入っていた。今日がその日だ。久美は念願のお菓子屋さん行きを決行すべく、百円玉を六枚持ってスキップしながら商店街へ出かけていった。
そのお店は商店街から一本入った路地にある。茶色のレンガがはってある平屋建てのお店で、いつもドアのそばに小さな看板が立てかけてあった。『万国菓子舗 お気に召すまま』と店名だけが書いてある。ママが店名を読んでくれた時、七歳だった久美は首をかしげて聞いた。
「ばんこくかしほって何?」
「いろんな国のお菓子を売っています、って意味じゃないかな」
ママは店名の謎を解くべく店内に足を踏み入れた。
ドアベルをカランカランと鳴らして店の中をのぞき込む。狭い店の中には小さなテーブルが二つと椅子が四つ、幅の広いガラス張りのショーケースと、焼き菓子が置いてある細長い棚が一つ。すべてがぎゅうぎゅうと詰まっていてまるでドールハウスに入ったような気持ちになった。
「いらっしゃいませ」
声をかけられそちらを向くと、ショーケースの向こうには明るい茶色の目を細めた優しそうなお兄さんが立っていた。淡い茶色の髪と白い肌は日本人ではないようで、けれど言葉は流暢な日本語だった。
「どうぞごゆっくりご覧下さい」
ママはお兄さんに小さくうなずくと、ショーケースの中を丹念に点検しはじめた。久美はママの手を離し、お兄さんの顔をじっと見つめた。
「どうしたのかな、おじょうさん」
お兄さんの声は穏やかで耳に沈んでくるような低い響きを持っていた。
「お兄さんは、サンタクロースなの?」
久美の質問に、目を大きく開いたお兄さんは優しく微笑んで小声で答えた。
「どうしてばれたのかな。おじょうさん、僕は日本人には見えなかったかな」
久美も小声で答える。
「うん。久美はね、すぐわかったよ。だってお兄さんの目、絵本のサンタさんにそっくりだもん」
お兄さんはさも愉快そうに頬をゆるめると、ショーケースの中から出て来て、久美のそばにしゃがみこんだ。間近で見るお兄さんの目は本当に優しくて、吸い込まれそうなほど美しく、情熱を秘めてきらきらと輝いていた。お兄さんは口の前に指を一本立ててみせると「ひみつだよ」とささやいて久美に小さなキャンディーをくれた。久美はすぐにスカートのポケットにキャンディーをしまった。
「すみません」
ママに呼ばれてお兄さんはショーケースの中に戻り注文を聞いていた。久美はポケットをそっと押さえた。そこからあたたかさが広がっていって、久美の頬は赤くなった。
ママのいつものドーナツを食べそこねた久美のお腹がぐうっと鳴った。商店街の中ではから揚げを売っているお肉屋さんや駄菓子を売っているスーパーなどが空腹の久美を誘惑してきたが、今日は『お気に召すまま』のお菓子を食べるんだ! と心に決めて600円を握りしめ、商店街を駆け抜けた。
カランカランとドアベルを鳴らして扉を開けると、ショーケースの中にいつものようにお兄さんが立っていた。一人で入ってきた久美を見るとお兄さんは首をかしげた。
「いらっしゃい、久美さん。今日はママは一緒じゃないのかな」
「うん。久美、もう一人でお買い物できるもん」
お兄さんはにっこりと笑うと、ショーケースのお菓子達を紹介するように大きく両手をひろげた。
「どうぞお気に召すままご覧下さい」
その笑顔が本当にうれしそうで、久美もつられて大きく笑った。
「もう! 荘介さん! もっと早く帰ってきてくださいよ。私だってたまには定時で帰りたいんです」
「ごめんよ、久美さん。松川さんの奥さんに卓球場に連れて行かれちゃって」
「またコックコートのまま卓球してたんですか。せめて外へ行く時は白衣は脱いでくださいよ」
あれから十二年。久美は今では『お気に召すまま』で働いている。お兄さんはあいかわらず日本人には見えない容姿でいつまでも若いままだけれど、もうサンタクロースには見えない。久美の目に彼は怠け癖があって、時間にルーズで、ちょっと困った大人に見える。
「さて。明日の仕込みをしようかな」
けれど、うきうきと厨房に入っていく背中はいつも昔と変わらずお菓子が大好きで、お菓子作りが大好きで。いつも変わらず両手を大きく広げて久美にお菓子を紹介してくれる。
その背中を見送りながら、久美はそっとポケットを押さえた。そこにもうキャンディーは入っていないけれど、小さなころから育ててきた久美の大切な甘い夢が、今も久美をあたたかく包んでいるのだ。
「荘介さん、今日は一番に桜餅がはけました、明日はもう少し多めに作ってくださいね」
「わかりました。それと、明日は新作の和菓子も作りますよ」
「ほんとですか! 楽しみです!」
久美ににこりと笑ってみせて作業を始めた荘介の背中を、久美は幼いころのように見つめる。けれどその目はしっかりと、力強いきらめきをたたえている。お菓子に対する情熱をいっぱいにたたえた瞳なのだった。
『万国菓子舗 お気に召すまま』マイナビファン文庫より 3月20日発売!




