夢だった
夢だった
香織の小さい頃の夢は「ステキなお嫁さんになる」こと。保育園の頃は男性の保育士さんにプロポーズした。小学校の卒業文集にも書いた。中学生になって初めて付き合った男子に結婚の約束を迫ってフラれた。高校の進路志望に「専業主婦」と書いて怒られた。短大時代は合コンに出まくったけれど目ぼしい人は見つからなかった。それから会社員になって、自分が有能だということを知った。
香織は仕事に打ち込み、地位はどんどん上がり、忙しさのなかに時間はあっという間に過ぎた。気づけば友人たちは皆結婚し、子供を育て、すでに孫を抱いたものもいる。香織はふと来た道を振り返った。
学生時代はふわふわした綿菓子のような日々だった。夢に住み、夢は必ずかなうと思っていた。
社会人になってからは、石橋の上を通ってきた。橋はどんどん固くしっかりと広がり、下が川だなんて忘れていたのだ。
今、香織はその橋の欄干に両手をついて川を見下ろしていた。水面にうつる顔にはシワが刻まれ、肌はくすんで、とてもお嫁さんになりたいと言っていた女の子と同じ人間とは思えなかった。しみじみとため息をつき、涙が浮かんだ。
「私の人生、なんだったんだろう」
自問した香織は、川のなかに、一人で飛び込んでみることにした。
ブライダル雑誌を買い、式場の目星をつけて予約した。ドレスを仕立てて、まだスタイルが崩れていないことに歓喜した。招待状を身近な友人に送った。そして新郎をレンタルした。
「おめでとう、香織!」
「ステキな旦那さんねえ」
みんなが口々に誉めそやす新郎は素人劇団に所属する役者で、時給二千円で雇った。見目が良いことを最優先したが、どうやら裏目に出た。みんなが誉めるのは新郎ばかり。香織に向けられる言葉は「いい人に巡りあえて良かったわね」。香織は川の流れに足をとられ、すべり、流されようとしていた。
「こんなステキなお嫁さんに出会えたなんて、ほんとに僕は幸せものです」
ステキなお嫁さん?
驚いて隣を見ると、新郎がはにかんだ笑顔で香織を見つめていた。思わず香織は新郎の手を握りしめた。新郎もぎゅっと握り返してくれる。香織は晴れやかに笑った。
夢のような時間が過ぎ、香織と新郎は空港に立っていた。
「今日はほんとうにありがとうございました」
深く頭を下げた香織に役を終えた新郎は笑顔で手を振り帰っていった。香織は一人、飛行機に乗り一人きりのハネムーンに出発した。
「ステキなお嫁さんになった……」
デジカメで撮ったばかりの結婚式の写真を眺め、ぽつりと呟く。そこに写る香織は幸せそうで、まるでほんとうのお嫁さんのようだった。
飛行機の出発を知らせるアナウンスで、香織はカメラの電源を切ろうとした最後の写真に、手が止まった。そこには新郎が両手を広げた姿が写っていた。まるで香織が飛び込んで行くのを待っているように見えた。役者の最後のサービスだ。香織は新郎の胸をつん、とつついてカメラの電源を切った。




