海雪
海雪
やっと午前の仕事が終わった。いやいやながら勤め始めたこの工場の唯一の楽しみは社員食堂だ。海に面した広い窓が誰でもできる流れ作業という嫌な現実を忘れさせてくれる。定食の味も申し分ない。うどんはかなりのびているが。
待望の昼休み、うきうきと工場の社員食堂に行くと窓際に人だかりがあった。なんだろう、と近づくと朝は晴れていた空が鉛色にそまり、景色は靄に覆われたように白っぽかった。よく見ると白っぽいのは強風で斜めに吹き飛ばされている雪だった。吹雪だ。初めて見た。この辺りでは雪が降ること自体が少ない。吹雪を見たことがない人の方が多いだろう。人だかりの皆はそうなのかもしれない。
「今年も海雪が降ったなあ」
後ろから聞こえた声に振り返ると先輩が無精髭を撫でながら窓の外、雪を透かすように鉛色の海を見ていた。
「海雪?」
先輩はちらりと私に視線をうつしたが、またすぐに海を見つめた。
「お前は今年入社だったな。毎年、吹雪くんだ、ここだけな」
「ここだけって、この海岸だけでですか?」
先輩はまたちらりと私に視線をうつし、小さく笑った。
「外を見てこいよ」
言われて工場の外に出てみると空は晴れ、日差しが暖かだった。海は青く、どこにも雪なんてなかった。狐につままれた気分で社員食堂に戻ると、窓の外は吹雪だ。私は走って外と社員食堂を走って何度も往復した。息切れて動けなくなった私を先輩が笑って見ていた。
「……プロジェクションマッピング?」
「さあ、どうだろうな」
にやにや笑いの先輩に押されるように人だかりを押し分け窓を開けた。冷たい風と雪が雪崩れ込んできた。海も空も窓越しとかわらず鉛色だった。雪は私の頬に叩きつけられ髪にくっつき、窓の桟に薄く積もる。私はそっと窓を閉めた。
すっかり混乱して、日替わり定食を食べようと思っていたのに月見うどんを食べてしまって食堂を出る。出る間際にもう一度窓を見てみると相変わらず雪が降りつづいていた。私は一足先に事務所に戻ってしまった先輩を探して事務所に入った。
「先輩、あれはなんなんですか?」
「だから言っただろ? 海雪だって」
「名称ではなく現象の説明を聞きたいんです」
「俺が知るわけないだろう」
先輩が机に突っ伏して寝てしまったので、会社の最古参の女性社員に話を聞きにいった。
「あれはこの工場が経ってすぐのことなんだけど。その年はすごく寒くて雪もよく降ったのよ。あの日も雪が降っていた、いや、吹雪だったって言った方が正しいわねえ。工場の一番若い男の子がサーフィンが好きで好きで、冬でも海に入る本格派だった。その彼が吹雪の日、無謀にも波に挑戦したの。工場のみんなは窓からそれを見ていた。海にこぎだした彼が頭から大波をかぶったところまで、私たちは見つめていた。けれどそのあと彼の姿は見えなくなった。それから毎年、その日になると海雪が降るようになったの」
「……そうなんですか。悲しい話なんですね」
「信じた?」
「へ?」
「うそうそ。そんな話ないない。あははは、だーまさーれたー」
指さして笑われ、私は怒るより呆れてしまった。長い作り話のせいで昼休みが終わってしまった。
結局、海雪の真相は分からぬまま終業時間をむかえた。帰り際に社員食堂に行ってみたが、もう吹雪いてはいなかった。空も海も静かに真っ黒だ。
外にでるとすっかり冷え込んでいた。もしかしたら今夜は雪が降るかもしれない。そう思い空を見上げると、しんと冷たい星が瞬いていた。
海雪は、来年も降るのだろうか。不幸をもたらさず工場のみんなに、ちょっぴりの不思議を贈ってくれる雪は。その時を私はここで一年間待っていよう。そう思った。
 




