空にうかぶナイフ
空にうかぶナイフ
悠馬はパーカーのポケットに手を入れ、探る。そこに小ぶりのナイフを見つけ、ほっと息を吐く。折り畳み式ナイフの木の柄が指に温かく感じられた。殴られて腫れた唇から流れる血を手の甲で拭う。明かりもつけない部屋の中、窓から射し込む街明かりが明滅して悠馬の白い肌を赤く、青く、薄汚く照らす。
今日の客は最悪だった。紳士然とした顔をしていたのに部屋に入った途端、悠馬を殴りつけた。男は悠馬の下半身だけを空気にさらし、犯しながら殴り続けた。へらへらと笑いながら殴っている男の顔は地獄絵図に描かれている下っ端の小鬼のようで悠馬は笑い出しそうになったのを必死にこらえた。札束を投げ捨てて去っていく男の背中を感慨もなくぼんやり見送った。
悠馬は床から体を起こし服を直すと鏡を覗きこんだ。まぶたが腫れあがり、あちらこちらに紫色の内出血が見える。商売道具の顔をダメにされて、これからしばらくは仕事になりそうもない。
ベッドに腰を下ろし、ポケットからナイフを取り出す。刃を広げて右手で握り込む。木製の柄は肌に吸いつくようで、すっかり悠馬の手に馴染んでいた。これを手に入れたのは、ほんの偶然の事だった。十四歳で初めて家出した時に補導員の手から逃れて駆けこんだ路地で倒れていた浮浪者に蹴つまずいた。浮浪者は片手に酒瓶、もう片手にこのナイフを握っていた。その当時、すでに酒の味を覚えていた悠馬は、まだたっぷりと中身が入った酒瓶に目を留めた。腹が減っていたし喉も渇いていた。酒を流し込めばしばらくはもつだろう。けれど悠馬は無意識にナイフを手に取りポケットに入れた。それでなんだか満足し、路地を出ようとして振り返ると、そこに浮浪者の姿はなかった。それ以来、悠馬はナイフを手放せなくなった。自分が何かを選んで手に入れた事などそれまでに一度もなかったのだから。
床に散らばった一万円札の内の一枚をポケットにつっこんで食物を買いに部屋を出る。薄汚い道を暗い方へ暗い方へと歩く。街中に行けば店はいくらでもあるが、こんな顔では見世物になるのは間違いない。いつもは行かないコンビニへと足を向ける。
静かな住宅街は整然とならんだ同じような家ばかりで悠馬は自分がどこにいるのか、いつもわからなくなる。二度と戻りたくない幼いころに迷い込んでしまったようで不安になる。ぴたりと足が止まる。もう走って逃げてしまいたかった。何から? いったい何から?
「よお、悠馬」
呼びかけられた声に振り返るとマサヒロがぶらぶらと歩いて来ているところだった。悠馬はほっと息を吐く。マサヒロに向かって駆けだしたかったが、気恥ずかしくて足を止めた。
マサヒロは街をふらついていた悠馬を拾ってくれた男だ。飯も酒も住むところもマサヒロがくれた。悠馬はマサヒロの言う通りに暮らし、マサヒロの言う通りに仕事をした。
「あーあ。商売モンに傷つけやがって、あのくそオヤジ」
今日の客もマサヒロがとってきた。若い男でないと駄目だという男は割と多い。マサヒロはもう三十代で客はほとんどとれない。悠馬はマサヒロから受けた恩返しに、儲けのほとんどをマサヒロに渡していた。
マサヒロは悠馬の顎に手をかけ、左右に動かしてけがの様子を見る。痛みに顔を顰めながらも悠馬はマサヒロに身を任せた。
「こんな顔じゃコンビニにもいけないだろ。部屋に戻ってろ。なんか持って行ってやるよ」
悠馬は痛みに顔を引きつらせながらもなんとか笑ってみせた。住宅街の先へ歩いていくマサヒロの後ろ姿をしばらく見つめてから、悠馬は来た道へ戻った。
部屋に散乱した札を掻き集め自分の食費ぶんだけを取り、後はマサヒロに渡すためにテーブルの上に置く。雑誌や空き缶が散らばる部屋を手早く片付け、冷蔵庫の中にビールがあることを確認する。顔にこびりついたままにしていた血を洗い流しているところにマサヒロがやってきた。テーブルの上にコンビニのビニール袋を置くと何も言わずに札束を取りポケットに入れた。
「とっとと食えよ」
そう言うと悠馬に背を向けビールを片手にテレビをつけた。悠馬はビニール袋から小さな弁当を取り出し箸を取る。冷たい弁当が切れた口の中に突き刺さり痛んだ。食べ終えた容器をゴミ袋に捨てていると背中にマサヒロが負い被さってきた。悠馬は驚いて振り返ろうとしたが、マサヒロは悠馬をがっしりと掴んで離さないまま耳元に口をつけて囁いた。
「客がとれないと寂しいだろ? 俺が相手してやるよ」
悠馬は何が起きているのか分からず混乱したまま体を固くした。マサヒロは何をしているんだろう。何を言ったんだろう。優しいマサヒロ、親切なマサヒロ、自分を傷つけないマサヒロ、マサヒロなのに。マサヒロなのに、そんなことあるわけない。マサヒロがそんなことするわけない。酒臭い息が首筋にかかる。マサヒロの手が悠馬の胸をまさぐる。尻にマサヒロの固くなったものが押しつけられる。
うそだ。
うそだ、うそだ。
マサヒロが、そんなこと。
思わずマサヒロの腕を振りほどき、突き飛ばした。マサヒロは壁に背中を打ちつけ呻いた。ハッとした悠馬が謝ろうとするよりも先に、マサヒロは悠馬の胸倉を掴むと拳を腹に叩きこんだ。悠馬は苦痛に呻きも上げられない。
「てめえ、今まで飼ってやったってのに、なんのつもりだ」
マサヒロの言葉はどこか遠くから聞こえるようで現実感が無かった。これは夢だろう、悪い夢だろう。
「俺に逆らうとどうなるか体に叩きこんでやる」
マサヒロはまた悠馬の腹を殴る。腕も、肩も、背中も、悠馬はただぼんやりと殴られ続けた。悠馬が抵抗しないままぐったりしていると、マサヒロは悠馬の服を剥ぎ取ろうとした。悠馬は初めて抵抗を見せた。パーカーをしっかり抱き込みマサヒロに背を向けた。マサヒロはその背を蹴りつけると、舌打ちして立ち上がった。
「あーあ。つまんねえ。もういいや、お前、もういらねえ」
悠馬は目を見開きマサヒロを見上げる。マサヒロは優しい笑みを頬に浮かべた。なんだ、嘘なんだ。マサヒロは自分を捨てたりしない。自分はマサヒロのために必要なんだ。
「いらねえんだよ、お前なんか」
悠馬の目の前が真っ赤になった。何も見えない。何も聞こえない。さっきまで疼いていた痛みも消えた。パーカーのポケットに手を入れる。馴染んだ木の柄、握ると不思議と落ち着いた。ナイフをポケットから取り出し刃を立てる。両手で柄を握り込むと刃がすっと前に向かって伸びた。引きずられるように悠馬の体が傾き、刃はなにか固いものに当たった。あたたかな、とてもあたたかなものがナイフを握る手にかかり悠馬は頬に笑みを浮かべた。ああ、これをずっと探していた。これがずっと欲しかった。
気がつくと、悠馬は部屋の真ん中にぺたりと座りこんでいた。マサヒロの腹からナイフが生えていた。真っ赤な血がマサヒロの腹から床までこぼれていた。悠馬は自分の両手を見つめた。マサヒロの血で濡れた真っ赤な手。その手でマサヒロの体を抱きしめて悠馬は目を閉じた。
あの時、あの浮浪者の手から二つのものからナイフを選んだ時の事を悠馬は思い出す。欲しかったんだ、月のようなきらめきが。太陽のような赤い血が。自分を照らしてくれる光が。なのに……。
赤く染まったナイフは街明かりを寄せ付けず、黒々とその姿を変えていった。
 




