もしも一度だけ
もしも一度だけ
もしも一度だけ願いが叶うならアタシはお金も幸せもいらない。ただひとつ、たったひとつ。
アイツの命が欲しい。
アイツがアタシの前に現れたのはアタシがまだ幼稚園に通っていたころ。ある日とつぜん家にやってきて「お父さんだよ」って言った。お父さんがいなかったアタシは大喜びした。小学校へ上がるころには、お父さんといっても血が繋がっていない義父、お母さんの恋人なのだと理解した。アタシとアイツは他人なのだ。
アイツはいつでも良い父親になろうと努力していた。学校行事や家庭サービスにも熱心だったし、誕生日もクリスマスも忘れずにプレゼントをくれた。世間的には良い父親で、母にとっても良い夫だったろう。
けれどアタシは年を重ねるごとにアイツから離れていった。その始まりは小学校三年生のとき、並んで道を歩いていたアイツがアタシの手を握った。アタシは急いで手を引っ込め、ポケットに突っ込んだ。アイツは少し驚いて目を開き、それから寂しそうに目を伏せた。
その数日前、夜中に目が覚めたアタシはトイレに行く途中、見てしまったのだ。アイツが裸で母と抱き合っている姿を。アタシは初めて理解した。アイツは母のもので、決してアタシのものにはならないと。
それ以来、アタシはアイツから距離を取るようになった。いつも下を向いて言葉も交わさなかった。もらったプレゼントはクロゼットに押し込んで見ないようにした。ただ、アイツの声だけは防ぐことができなかった。アイツの声はアタシの中に積もり、アタシの胸を圧迫した。
母が亡くなったのはアタシが高校を卒業する直前。アイツは何日も泣いていた。アタシはその泣き声も胸にしまって、聞こえないふりをした。アタシの中でいつまでもその声は響きつづけた。
それから家の中はしんと沈んだままだった。アタシは相変わらずアイツを無視したし、アイツは母にそっくりなアタシを見るのがつらかったのだろう。アタシを避けるように家にいない日が増えた。
「結婚したい人がいるんだ」
アイツがそう言ったのはアタシが高校を卒業した時。
「そう。じゃ出てくわ」 アタシはその日のうちに家を出た。アイツは引き止めた。娘なんだからと。アタシは振りきって、二度と家には帰っていない。
アイツが死んだと知った時、アタシは一人、岬に向かった。アイツが母とアタシをしょっちゅう連れてきた岬に。アイツは苦しみもせず安らかに息を引き取ったという。
それでも、それでも。アタシはアイツの命が欲しい、アタシだけのものにするために、もう一度命を。もしも願いが叶うなら。もしも。
岬の突端は虹がよく見えると有名だった。アイツと見た虹は、今日の曇天では臨めない。アタシは灰色の海に背を向けて、一人の家に帰った。願いは、いつも叶わない。
アタシは虹が嫌いになった。




