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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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生ぬるい部屋

生ぬるい部屋

 俺の人生ってなんだろう。ベッドに仰向けに寝そべって、ぼんやりと天井を眺める。薄汚れて黄ばんだ壁紙が所々たわんでいる。窓と桟の間に隙間があって北風が吹きこんでくる。俺にぴったりの貧相な部屋。繁華街の路地裏の薄汚いアパートの一室、負け犬の住処だ。

 小さな頃から何をしてもダメだった。勉強も運動も人並みに出来た事などなにもない。負けっぱなしだ。じゃんけんでさえ勝った事が無い。もちろん大学受験も就職活動も勝ち抜くことなんかできなかった。最低賃金しか払ってくれないバイトでなんとか食いつないでいる、この毎日。

 それでも諦める事ができない。俺はいつだって勝ちたい気持ちで生きている。決して手を抜いているわけではない。いつだって力を尽くして、それでダメなのだ。勉強だって運動だって就職活動だって必死でやった、それなのに。救いようもない。

 もう三日、寝たっきりでいる。連休なんて俺には退屈なだけだ。動けば腹が減る、腹を満たすには金がいる。寝ているのが一番なのだ。けれどやはり俺の腹の中は空腹になればなるほど勝ちたいという気持ちが膨らんで、胃が圧迫されて吐きそうになる。このまま埋もれている事に対する恐怖が背中を駆けあがり、脳天までを痺れさせる。焦りが俺に走れと命令する。けれど俺はどこへ向かえばいいのか知りようもない。

 いつのまにか眠っていたようだ。目を開けると窓から赤い陽がさし込んでいた。夕焼けだ、明日も晴れるのだろうか。せめて晴れてくれたら助かる。スニーカーに穴が開いて水がしみてくるのだ。傘も雨漏りがする。そういえば靴下もよれよれだった。けれど金は無い、食うのがやっとだ。実家に帰るわけにはいかない。帰れば家を相続した兄に嫌な顔をされる。負け犬の俺を蔑む目をする、出来のいい兄。諦められたらどれだけいいだろう。兄に頭を下げ、負けを認め、食わせてくださいと取り縋ったらどれだけ楽だろう。けれど俺の心は痛いほど勝ちたいと思うのだ。

 夕陽はだんだん勢いを失くし部屋の中が少しだけ暗くなる。電気はつけない。カーテンのない窓から喧騒と共に街の明りが入ってきてネオン管の中に閉じ込められているかのように取り取りのライトに照らされる。俺はまた目を瞑る。


 空腹を水でごまかして早朝に部屋を出る。ヒゲは剃らない、どうせ誰も気にもとめやしない。空は晴れて冷たい風が耳をちぎりそうなほど強く吹いている。バイト先まで電車で三駅、けれど歩いていく。底がすり減ったスニーカーでは衝撃を吸収できないようで、最近は足の裏が固くなってきた気がする。そのうち裸足で歩けそうだ。

 道の先、なにか黒っぽいものが落ちている。巨大なゴミ袋かと思って近づくと、襤褸を着た人間だった。伸び放題のヒゲ、垢で黒ずんだ皮膚、目を大きく開いたままぴくりとも動かない。ぞっとした。俺の行く末を見た気がした。俺は震える手でその浮浪者の体に触れた。固く凍ってしまったみたいなその体は、指先が触れただけでずっしりとした重みを感じさせた。死の重みだ。誰にも看取られずゴミ屑のような死でも、重みは変わらず、誰にとっても平等なのだ。そうだ、俺もこいつも兄も金持ちも貧乏人も皆、死は平等なのだ。

 俺はそっと死体の手に触れた。男は何かを握りしめていた。指をひらかせてみると、一万円札が二枚握られていた。俺はその札を自分のジーンズのポケットに突っ込んだ。周囲を見渡し人目が無い事を確かめると急ぎ足でその場を離れた。


 どうしてそんなことをしたのか分からない。しかし後悔はしていなかった、これは俺の革命だ。俺はその金でパチンコをして大当たりを出した。十倍に膨らんだ金で宝くじを買い、それも当たった。ツキが回ってきたのだ。金周りはどんどん良くなっていった。部屋を引っ越し、スーツを買い、就職活動をした。一件目の面接で合格し、正社員として働くことになった。

 勝ったのだ、俺は人生に勝ったのだ。

 拳を握りしめ口にあてた。そうしていないと叫びだしそうだった。笑いが腹の底から湧いて来て、同時に涙も流れてきた。俺は泣きながら笑った。


 おかしくなったのは、それから二ヶ月たったころからだ。最初に気付いたのは爪の汚れだった。爪と皮膚の間に垢が溜まる。何度洗ってもその真っ黒な汚れはとれない。次に目が黄色く濁って、肌も同じように黄色く、かさつくようになっていた。体がだるくて、仕方なく病院へ行った。だがどこも悪いところはなかった。体はどんどん重くなり、食欲もなく体重はあっという間に減っていった。思い当たるのは、あの男の事だ。あの二万円、あれが俺に祟っているのではないか? 非現実的な想像は払おうとしても頭から払う事が出来ず、俺から眠りを奪っていった。暗い所が恐くて部屋はいつも煌煌と明るくしていて、一人でいるのが恐くて俺は夜明けまで飲み歩いた。べろべろに酔ったまま仕事に行く。解雇されるのはすぐだった。俺はすぐに元の生活に、いや、それよりもひどい最底辺まで転がり落ちた。住むところも食べるものも無くし着の身着のまま街をうろつく名もないものになっていった。


 気付いた時には道端で倒れていた。手にはなけなしの一万円札が二枚、俺が持っているのはもうそれだけだった。ぎゅっと握りしめようとして力が入らない事に気付いた。足音が聞こえ、俺の目の前に薄汚れたスニーカーが現れた。そのスニーカーの主はしゃがみ込むと俺の手から一万円札を取り上げ、そのまま歩いていった。

 ああ、お前、お前も俺なんだな。俺は去っていった負け犬を憐れんだ。生まれて初めて俺は誰かを憐れんだ。それは勝ち負けではなく、俺とあいつと、あの時の浮浪者と、すべての命を平等に慈しむ思いだった。

 俺は静かに目を瞑る。誰かあいつを助けてやってくれ。俺のかわりにあいつを助けてやってくれ。俺の命はもうすぐ終わる。勝ち負けに関係ない世界に行く。だけど誰か、あいつを勝たせてやってくれ。俺の二万円を持って行ったやつを、ゆるしてやってくれ。

 誰か―――。

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